竹内銃一郎のキノG語録

耳慣れぬ言葉が乱舞する  「紅孔雀」との再会2015.02.06

CSの東映チャンネルで、「紅孔雀」全5部を見る。前月放映された「笛吹童子(全2部)」とともに、NHKのラジオドラマを原作としている。ウィキによれば、「笛吹童子」は1953年に、「紅孔雀」はその翌年に、月~金の夕方6時30分~45分で一年間放送。映画は、ともに、放送が終わったその同じ12月に第一部が公開され、週代わりで2部3部と次々公開されたというから、凄いというか乱暴に過ぎるというか。

53年といえば、わたしが小学校に入った年だが、放送は欠かさず聞き、映画ももちろん全部見ている。映画への傾斜は間違いなくこれらがキッカケになったはずだ。

60年という歳月を経て(ああ、目が眩む!)再会した映画の感想はと言えば、いくら子供向けとはいえ、いくらなんでも粗製が過ぎるぜ、というもの。先にも書いたように、原作は15分×約200回という膨大なもので、それを「紅孔雀」は5部になっているとはいえ、一本は50分足らずの長さだから、到底収まりきれないというか、週代わりで作り続けるという時間的な制約の中では、シナリオもままならなかったであろうことは容易に想像が出来る。膨大な長さに比例して(?)、主な登場人物だけでも優に20人を超えていて、ラジオドラマでは、それぞれ物語の進行にそれなりに寄与していたはずだが、映画版では、殆どがいたずらに現われては消えるを繰り返すただの賑やかしとしか思えない役割に貶められている。「紅孔雀」の信夫一角は妖術使いの悪党ということになっているのだが、その妖術はといえば、煙とともに突如現われては消えるという術のみで。

映画はほとんど覚えておらず、記憶にあったのは、「笛吹童子」で大友柳太朗演じる霧の小次郎(これも妖術使い)が、ヒロインの桔梗を小脇に抱え、流れる雲に乗って、ワッハハと高笑いしているところで一部が終わる、というところだけだった。

深く記憶に刻まれていたのは、人物名を含む諸々の単語だ。先の「きりのこじろう」しかり、「笛吹童子」に登場する「こちょうに(胡蝶尼)」、「紅孔雀」に登場する「うきねまる(浮寝丸)」「くろとじ(黒刀自)」「あみのちょうじゃ(網の長者)」「かぜこぞう(風小僧)」等々、みんなカッコいいが、なんと言っても極めつけは「ごしょうざけのしょうじょう(五升酒の猩々)」だ。まだ6、7歳の子どもだから、漢字でどう書くのか知るはずもなかったが、その音からそれらが意味するところのもの、その人物像は、確かな手触りとともに想像しえていたはずだ。それから、いしつぶて(石礫)、てぶんこ(手文庫)、あかずのま(開かずの間)という、耳慣れない単語。とりわけ、骸骨が眠っていた開かずの間は、「赤図の間」=血に染まった部屋と理解して、その禍々しさに震え上がったことはいまも鮮明に覚えている。

多分これはわたしだけでなく、これら「新諸国物語」と銘打たれたドラマを毎夕ラジオにかじりつくように聞いていた子供たちはみな、波乱万丈の物語もさることながら、なにより、先に挙げたような耳慣れぬ言葉の乱舞に胸躍らせていたはずだ。それは、見知らぬ世界に触れた喜びというより、(子供が)触れてはいけないものに触れる喜びではなかったろうか。

一覧