誰がそれを決めるのか? 舞台本番の心得2012.04.24
「いちご大福姫」昨日無事終了。
今回の公演は、日々客席の反応が異なり、それがわたしにはとても楽しかったのだった。
初日は、カーテンコールで歌う「達者でな」に手拍子が入り、翌日は短編が一本終わるたびに拍手があったり、その翌日は出演した武田さんのタップダンス教室の生徒さんたち(と、いっても平均年齢推定72歳)から、武田さんへの掛け声がかかったり。
打ち上げ終了後、帰り道でドラボ・メンバー大久保から、かなり本質的な悩み・疑問がわたしに投げかけられた。
楽日前日の舞台が終わったあと、稽古と本番は違う。稽古場では当然いなかった観客が本番にはいる。別に観客におもねることはないが、客席からの圧力を押し返す強さがほしいと、大久保個人を名指しで話したのだった。
それに対して彼はかなり動揺し、次のように考え悩んだらしいのだ。
相手の芝居が稽古で作り上げたものと違うように感じる。その場合、相手に合わせるのにさほどの困難は感じないが、しかし、その「稽古とは違う芝居」を認めていいのか、違うのを<正常>に戻した方がいいのではないか、しかし、そうすると、相手と自分の間にズレが生じてしまってうまく流れなくなるのではないか。
なにが正しいのか、それを誰が決めるのか。と、彼は考え込んでしまったようなのだ。
それに対してのわたしの答え。分からない。
事後的に、つまりその日の芝居が終わったあとでなら、あそこが悪かった良かったとはいえる。けれど、芝居が進行している間は、なにが正しいのかそうでないかは誰にも分からないし、そんなこと誰にも言えないのではないか。瞬間瞬間に選ぶしかないし、その選び取る基準は稽古によって得られるものであろうけれど、本番は稽古と違うのだ。
先にも記したように、本番の舞台には、稽古と違って観客と言う不確定要素が関与する。他にもその日の天候や温度や、社会の動向にだって関与の余地はある。そういった様々な不確定要素を引き受けながら、その日の<舞台>は作られる。そうでなければ嘘だ。稽古場でもよく口にするのだが、毎日同じ芝居を繰り返すことに飽きないのなら、役所にで勤めて毎日はんこを押してればいいだろう。
これまでも何度も書いたはずだが、すでに出来上がったものとして対面する小説や映画等と違って、観客はいま作られつつあるものとして演劇に接しているのだ。作られつつあるものだから、失敗もするし、あるいは、舞台上で失敗をしてしまったときに、観客は演劇の本質を見るのではないか。
今日の実習の授業でも同様の話をした。基本的に芝居に失敗や間違いはないはずだ、と。むろん、綿密かつ緻密な稽古を積み重ねた上での話だが。
誰かが台詞を間違える、忘れる、出とちりする、BGMが流れない等々。これらは通常ミスのように思われるが、しかし、野球でよく言う「ピンチのあとにはチャンスあり」ではないが、ピンチ=ミスはチャンスでもあるのだ。例えば、野外ライブで演奏中に豪雨に見舞われるとか、その豪雨のために電気系統がダメになって照明が消えた、音も聞こえなくなった等々、普通に考えれば致命的と思える状況が、かえって会場の雰囲気を盛り上げ、演奏者も観客もノリノリに、なんてことは容易に想像出来よう。
稽古で確認した<正しさ>も、本番では危ういものとなる。なにが正しいのか分からなくなる。それでも瞬間瞬間になにごとかを選択しなければならない。それをスリルと感じることが出来れば、とりあえず俳優の卵の殻くらいは破ったことになるのかもしれない。