竹内銃一郎のキノG語録

すべての草には名前がある。2015.02.18

一昨日の電話で藤田くんに送ってくれるよう頼んだ「風立ちぬ」が、今朝届く。仕事が早いなあ。「風立ちぬ」といっても、堀辰雄の小説ではなくジブリでもなく、もちろん松田聖子でもない。15年ほど前に東京乾電池のために書き下ろした、わたしの戯曲だ。データ化しようと思ったら手元に台本がなく、フロッピーに入ってたデータ(この頃はワープロで書いていた)も何故か一部が抜け落ちていて、それでこの公演の音響を担当していた彼に、もしも手元にあったらとお願いしたのだ。しかし。藤田くんがこれまで音響で関わった公演は数百に及んでいるはずで、その台本すべてを保有しているのだろうか? だとしたら、見上げたひとだと言ったらいいのか、その物持ちのよさに驚きの声をあげるべきなのか。

久しぶりにそれに触れ、「くだらねえなあ」と笑いながら読んでいたのだが、ある箇所に来て不覚にも落涙。それがどこかは、データ化したものを読んでいただくことにして。

前回の続きを。芝原さんの「マッシュ・ホール」は、わたしが担当していたゼミで「卒業戯曲」として書いたものに、その後、何度か手を入れ、「日本の劇」という大層な冠をいただいた戯曲賞に応募し、受賞したものだ。

藤田くんに来月上演されるその芝居の稽古状況を聞くと、難しい戯曲だよねえという答えが返ってきた。どこが? と聞くと、学生達の雑談めいたやりとりが延々続くし、それはそれなりに面白いんだけど、竹内さんの戯曲みたいにいきなりガツンと来るところがないし …と言う。要するに、前回書いた言葉を使えば、着地点=主題が見えないということだ。そこがこの戯曲の面白いところじゃないの? とわたしは応え、かなり長い間、それはどういうことかと話をしたのだったが。

この戯曲への戸惑いは、藤田くんばかりではなく、出演者・スタッフすべてが共有しているのではないかと思われた。送られてきたチラシに書かれた、次のような文章からもそれがうかがわれる。

菌学研究をしている学生たち 青春真っ盛りな彼らのありふれた日常 ありふれた恋愛事情 ありふれた友人関係 そしてありふれた将来を歩むはずだったが‥‥ 無自覚な日常は、果たしてどこへ向かっていくのか。

こんなキャッチコピーでいったい誰を捕まえようと思ってるのか、などいうイチャモンはとりあえずおくとして。書いたのは制作助手か誰かであろうが、この「ありふれた」の連発は、彼等が共有するところのものだろう。「ありふれた」日常だの恋愛事情だの友人関係だの将来などというものが、本当にあるのだろうか? あったらわたしにそれがどういうものか、具体例を挙げて教えてほしい。あるいは逆に、「ありふれてない」恋愛事情がどういうものか。これについても教えてほしい。

ひとはそれぞれ固有の日常だの恋愛事情だのを抱えているはずで、それを「ありふれた」と形容するのは、対象に触れもせず、「対岸の火事」を見るように、遠い安全地帯から眺めているからだ。「無自覚な日常」に埋もれてとろとろとまどろみの日々を送る自分に覚醒を促すような、そこにある「問題」を大声で叫んでほしいというのはあまりに怠惰、虫がよ過ぎる。

ずいぶん昔に読んだから誰が書いていたのか忘れてしまったが(詩人の鈴木志郎康?)、この世に雑草などという草はない、というのだ。そう、すべての草には固有の名がある。植物に関する特別の知識や関心がなくても、間近で見れば、その草とあの草の違いは分かり、それらを雑の字で括るのがいかに野蛮なことであるかが分かるはずだ。同様に、「ありふれた」という言葉を連発することでなにごとかを語ったつもりでおられるらしい方々が、思考停止状態にあることは言うまでもなかろうが、なにより、「作品」に対して失礼かつ無礼だとわたしは思う。

こんなわたしの危惧が一笑にふされますように。公演の成功を祈ろう。

 

 

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