「何も書かれていない書物」への夢2015.02.17
昨日の夜。久しぶりに旧知の藤田くんに電話をすると、「京都は寒いでしょう」ときた。彼だけではなく、みなが申し合わせたようにこんなことを言う。しかし、京都に移って一年の余になるが、長く住んでいた東京や大阪とさほどの変わりもないというのが実感だ。それは日々の天気予報で示される「明日の気温予想」など見れば明らかだ。おそらく、京都の寒暖が東京に比べて格別に厳しいというデータなどないはずだ。にも関わらず、この時期の京都が寒いということが常識になっていて、この地は盆地だからというのがその根拠になっているのだろう。しかし、それは50年100年前の「常識」なのではないか。路面がアスファルトで覆われ、高いビルが立ち並んでいる現状は、東京も京都も同じである。厳しい寒暖の条件となっていた盆地という地形は、すでに更新されてしまっているのだ、多分。
先週、松本くんが来宅。3時半頃やって来て7時頃まで我が家で飲み、近くの焼き鳥屋に席を移して、別れたのが10時半頃だったから、7時間ほど飲み続け、喋っていたことになる。後半はなにを話していたのか忘れてしまったが、我が家でのことは覚えている。共通の知人であるABは、ここにきてすっかり思考停止状態に陥っているのではないか、という話で、それはAの松本くんの芝居に関する感想が、2~30年前には常識とされていたことを根拠にしたもので …というところから始まった。スッキリよく分かるように書けないのは、松本くんに迷惑をかけてはという配慮からで、もどかしいのだが。
例えば彼等AB(に限らないのだが)は、「社会性」という言葉を使って、ある芝居を評価したりする。彼等が使う「社会性」は、近々の大きな事件、例えば、東北の震災であるとか、戦争とか、あるいは、野田秀樹が「天皇」などを作品の軸に据えると、若い頃の作品と違って、「世界の広がりを見せている」などと評価するわけだ。
結局のところ、この種の人々は、作品が生まれた作られた根拠とその着地点がほしいのだ。つまり、始まりと終わりを確認しなければ、対象を理解したとは言えないと考え、そして、その始まりと終わりを、演劇や映画や小説等よりも、大きいもの、揺るぎないものと考える政治状況やら歴史認識やら、時には、作り手の出自に求め、<誰しもが納得するであろう、分かりやすい、常識にのっとった>なにがしかの解(=作品の主題)を得たと思うとそこで安心するのである。こういう「安心」を長く抱え続けると、いつの間にかひとは思考停止状態に陥り、むろん当人はそれに気づいていないから、これはもう手の施しようのない重病人である。
「ボヴァリー夫人」の作者であるフローベールは、知人宛の書簡に次のような言葉を書いて、「何も書かれていない書物」への夢を語っているらしい。
「外に繋がるものが何もなく、地球が支えられなくても宙に浮かんでいるように、自身の文体の力によってのみ成り立っている小説、出来ることなら、ほとんど主題を持たないか少なくとも主題がほとんど目につかない小説」(蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」p73~74)
前述の藤田くんへの電話は、つい最近、卒業生の芝原さんが書いて「日本の劇」戯曲賞を受賞した「マッシュ・ホール」の上演に、彼が音響として関わっていることを知り、その稽古状況を教えて貰うためのものだったのだが、この話は長くなりそうなので、次回に。