竹内銃一郎のキノG語録

イーストウッド、ただいま御歳84歳! 「アメリカン・スナイパー」を見る2015.03.01

物語の場所が戦地のイラクに移動すると、まず戦車のキャタピラが画面を横切り、それとともにわれわれ観客も戦場へと送り込まれる。有無を言わせぬ迫力。とりわけ、主人公の最後の戦闘となるシーンは、画面一面が砂嵐で覆われ、声はすれども姿が見えず状態で、主人公が助かったのかやられてしまったのかも分からない。これがナマの戦争かと震え上がってしまう。

ストーリー自体は、アメリカ映画の王道を行くもので、父に教えられた「正しい生き方」をそのままに生きた男の話だ。イーストウッド自身、これはほとんど「西部劇」と変わらないといった趣旨の言葉を語っているようだ。確かに、主人公のアメリカン・スナイパーに対して、敵軍に彼と互角の力量を持つ「殺し屋」を配し、また、親しい友人の敵を討つために妻の反対を押し切って4度目の戦闘に赴く件など、やくざ映画でもお馴染みのシーンである。しかし。当然のことながら、西部劇ややくざ映画とは大きな隔たりがある。物量が圧倒的に違うのだ。ペキンパーの「ワイルドバンチ」も、半端ない数量の弾丸が飛び交い、大量にひとが死ぬのだが、この映画に比べればそれこそ月とすっぽんである。ひとが立つ背景も違う。西部劇等にある叙情性など欠片もない。ニュース映像などでもよく見られるが、空撮で撮られた街なみは見渡すかぎりの廃墟で、そこにひとが住んでいたのだと思うと胸が痛み、やりきれない気持ちにさせられた。

主人公は、戦地から帰ったあと深刻な精神障害を抱えることになり、日常生活を送るのに困難をきたしたりもする。これもまた戦争の残酷な側面で、「その後のシーン」にかなりの時間を割いたのは、単なるヒーローものにはしないという監督の意思の反映でもあろうが、わたしには蛇足であるように思われた。

印象的なシーンがある。戦地から母国に帰った主人公は、カフェ(のような場所)から、妻に電話する。妻は喜び、そして、いまどこにいるの? どうして家にまっすぐ帰ってこないの? と問う。が、主人公はそれに答えず、その場所から動けない。戦地での記憶がいまなお頭の中で駆け巡ってもいるのだろうし、過度の緊張から解放されたいま、ふと、いったいこれからどうやって生きていけばいいのか、自分の居場所はどこにあるのかと不安に襲われてもいるのだろう。とにかく動かない、動けないからだがここにあるという現実。もうそれだけで十分で、だからこのシーンで終わって、彼の「その後」は、字幕で語ればよかったのではないか。

いずれにせよ。大変な力作であることは認めつつ、汗臭い男ばかりが画面の大半を占め、笑いも叙情もほとんどないこの手の映画は、正直、わたしの好みから外れてしまう。だからと言って、イーストウッドへの敬意はもちろん変わらない。

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