竹内銃一郎のキノG語録

生きながらえることの残酷 演劇評論家・大笹吉雄氏の「命、棒にふります」という文章。2012.05.16

久しぶりに「唐版 風の又三郎」をちゃんと読む。
ざっとならこの2、3年毎年読んでいる。「戯曲研究」でとりあげているからだ。去年までは単行本版を読んでいたが、今回は全集版を読む。
やっぱり面白い。どの頁を開いても唐さん!

リリカルな長台詞があったかと思うと、軽演劇風のナンセンスな風や暴力の嵐が吹き荒れ、おびただしい血も流れる。おそらく唐さんの最高傑作だろう。
しかし、わたしがさらに驚き感動さえ覚えたのは、月報に書かれた演劇評論家・大笹吉雄氏の「命、棒にふります」という文章。
それは、唐さんの過激な言動にウブな自分が何度驚き騙され、そして、そのたびにどれほどの刺激を受けたかについて書かれたものだが、とにかく文章が濡れているというのか、唐さんへの敬意と畏怖に満ち溢れたものなのだ。
月報には、昭和54年10月とあるから、いまからざっと30数年前に書かれた文章である。
大笹氏はその後、小劇場の定義をめぐって、同じ演劇評論家の西堂氏と実りのない論争をしたり、日本演劇史を営々と書き続けたり、花柳章太郎、杉村春子の評伝をものす等々の仕事をされている。
ひとは変わる。そのことを否定するつもりはない。わたしだって変わってる。しかし、先に挙げた氏の仕事の具体をほとんど知らないままに素朴な疑問を書くが、唐さんへの憧れに近い評価とその後の仕事とは、どこがどうつながっているのだろう? 敬意と畏怖という語で、唐十郎と花柳章太郎・杉村春子はつながっているのだろうか?
ほんとに?
更にさらにショックだったのは、扇田昭彦氏による巻末の解説に引用されている当時の劇評のレベル。
レベルと言うと完成度を量ることになるから、あえて熱量の多寡ということにする、現在というか、この10年、20年に書かれたどの劇評よりも、それらの文章から放出されているエネルギー量が圧倒的に高いのだ。
熱い! 暑苦しいくらい熱い。
むろん、背景になる社会状況の違いも大きいだろう。でもおそらくそれだけじゃない。
この国の現在、批評家のみならず、現場の人間も観客も、演劇そのものに対する敬意とか畏怖とかが決定的に欠けていて、その反映として、ほとんど誰もまともに相手にしない劇評しか書かれない現状となっているのだ。
野田秀樹を特集した「悲劇喜劇」に寄せられた野田に関する論考のレベル(あ、使っちゃった)の低さは目を覆うばかりだ。単純に、書きたくて書いたという文章がひとつとしてない! わたしが大学で担当している「文章表現」の平均レベルとほとんど差がないようにも思われる。平均ということは、雑誌に掲載された文章よりもずっと上等な文章を1年生が書いてるよってことだ。
なぜ書いた? うん? お金のため? 時給に換算したらマクドナルドのバイトより安い原稿料なのに? お付き合い? お付き合いのためにバカをさらしてる? ああ、ほんとにバカなんだ、あなたたちは。

一覧