竹内銃一郎のキノG語録

虚無と品格 川島雄三『貸間あり』とイーストウッドの『ヒア・アフター』2012.05.24

昨日、ドラボ映画鑑賞会で久しぶりに、川島雄三の「貸間あり」を見る。10年ぶりくらいだろうか。
ナイツの漫才のように、間断なく、うざいくらいにボケ=ギャグが入ってることに驚く。そしてナイツと同様、そのギャグの大半は品がなく、ブラックがかってる。笑う。で、ナイツ以外で、なにかに似ているぞと思い、今朝やっと、ああ、筒井康隆の小説だ、と正解(?)にたどりつく。
筒井康隆を手当たり次第に読んでいたのは20代の半ば頃だ。以前にも書いたがA級Mによって上演された「悲惨な戦争」は、筒井氏のなんとかって小説を下敷きにしている。
ある時期の筒井氏の小説はどれもが傑作といってよく、中でもわたしのイチ押しは「乗越駅の刑罰」。まあ、ひどい話とだけ書いておく。が、自身が劇化した戯曲版は、小説とは似ても似つかぬ代物で、つい先日の授業でも、わたしの得意のフレーズ「親がわが子のもっともよき理解者であるとは限らないように、作者が自作品のもっともよき理解者であるとは限らない」を使ってしまったが、強くこの考えをもったのは、あまりにひどい「乗越駅」の戯曲版に接したからだろう。まあ、劇とはなにかがよく分かっていないこともあろうが、とにかく小説(の面白さ)をまったく理解してないひとが劇化したとしか思えないのだ。
「乗越駅」では、確か猫を煮たスープを、主人公が飲まされるんだか、頭から煮えたぎったのをぶっかけられるんだかされるのがラストになってたはずだが、「貸間あり」でも猫が皮は毛皮に、肉等は食い物にされる。
映画狂で知られる筒井氏だから、あるいはこの映画が頭の中にあったのかもしれない。
昔見た時はとにかく笑って、今回も笑ったのだが、なんだか気持ちの悪い映画という方が印象は勝っている。
お千代さんと呼ばれる3人の男=愛人を持っていた女が、普通の結婚をするためその男たちと手を切る。フランキー・堺演じる主人公が取り仕切るその別れの儀式の仰々しさが笑わせるのだが、しかし、間もなく彼女のそんな前歴がばれて破談となり、それをはかなんで彼女は自殺してしまう。が、その死んだはずのお千代さんを演じた乙羽信子が、ラスト、別の女として登場するのだ。ラストに登場する女がお千代さんであるのか、ほんとに顔は似ているけど別の女なのか。気持ちが悪いのは、事実関係が判然としないことなのではなく、そのぼやかし方なのだ。いくらなんでも虚無的過ぎないか、と。
川島の映画が虚無的であるなどということは、これまでも半ば定説のように言われてきたことだが、しかし、従来の言葉は、ほんとにあの暗さに届いていただろうか?
WOWOWでやっと「ヒア・アフター」を見る。語られる話の中身の切なさとは裏腹に、もっとも印象に残るのは空の青さだ。まったく、クリント・イーストウッドの世界は、青空のようにはてしがない。
ジャーナリストの女性にまつわるエピソードは、話だけ取り出せば、アメリカ映画によくある、通俗的と形容していいもののように思われるが、それをそうと感じさせない。なんだろう、これは? 品格?

一覧