濃口/薄口 元オウム菊池某の変貌に驚く2012.06.14
先週末、東京に帰ると「悲劇喜劇」からわたしの原稿が掲載された号を送ってきていた。
なんとなく嫌な感じの読後感。以前ここで書いたように、「戯曲の書き方」という特集に応えたのだが。
10人ほどの劇作家が寄稿しているのか。なんだかみんな力比べ、自慢合戦をしているようで。もちろん、わたしも例外ではない。
改めて断るまでもなく、書いたものを表に出すということは「自慢」が前提となっている。ましてや、編集者は、あなたの創作の秘密を教えて下さいといっているのだ、自負心がひと一倍強いひとびとである、誰もが他に負けまいといきり立つのは無理からぬところとはいえ。みっともない。
久しぶりにブルーな気分になってしまった。
「悲劇喜劇」の巻末にはいつも対談形式の劇評が載っている。いや、劇評などと言う代物ではなく、老人ふたりがお互いが見た芝居をつまみながら茶飲み話をしている、というもの以上でも以下でもないが。
そこでもまた、「満ちる」をとりあげたついでにと言った感じで、どっちかのご隠居さんが「竹内さんの作風は変わりましたね」みたいなことを言っていた。
わたしは自分の芝居に誰が来たのかをほとんど知らないが、ご隠居Aさんは、いったいいつのどの芝居と比較してこんなことをおっしゃっているのか。もしかしてこの20年30年、わたしの芝居を見たことがなかったのではないか。
年長者をつかまえてこんなことを書くのもナンだが、バカも休み休み言え!
変わらないことがいいことならば、わたしが昨日見た芝居は、こんな御仁にはおススメだ。
ビックリした、唖然とした、そのあまりの変わりなさに。
いろいろ差し障りがあるので、多くは書かないが。
吼えてるわりには中身がなく、いや、中身がないから吼えるしかないとそれは心得ているのだろう。だから、当然のことながら味気ないこと甚だしい。売り文句とは裏腹にびっくりするくらい薄口。
変わらないことと理屈がないことは、ローカルであるために必要不可欠であることを確認した。収穫はそれだけ。
それはそれとして。先ごろ逮捕された菊池某の変貌ぶりはただ事ではない。長らく手配写真でおなじみになっていた顔は20年近く前のものだから、そりゃ老けてるのは当たり前だけど、顔の長さが違ってやしませんか。
更に驚いたことには、この間に(10年前だったか)撮られた写真の顔が、手配写真とも現在のもともまったく、まったく違うじゃありませんか。
3人ともほんとに菊池某なの? 指紋が合致したって警察は言ってるようだけど。
これも何回か前のここに書いたことだが、いま次回作を準備していて、<クリーニング屋><美容整形>、それに3週間ほど前だったか、<なりすまし>が新たにキーワードとして加わっていた。
<なりすまし>は、何年か前、秋葉原にトラックで突っ込んだ加藤某に関する著書を読んで、これは面白いと思ったのだ。
知っているひとは知っているように、彼はこの現実社会には自分の場所がないと思い、ネットの掲示板で特殊なキャラクターを演じていて、そこだけが自分の居場所と思っていた。にもかかわらず、自分になりすました誰かがそこを荒らし放題荒らしまくって、ために、最後の自分の居場所もなくなって、あんな凶行に…ということらしいのだが。
そこへ、菊池某。不謹慎と知りつつあえて書くが、飛んで火にいる夏の虫とはまさにこのこと。
菊池某は、長く同棲していた高橋某ともどもこの十数年、櫻井姓を名乗り、縁もゆかりもない(らしい)ひとになりすましていたのだ。
それにしても、この菊池某の人生の濃さといったらどうだ。17年の逃亡生活もさることながら、先の高橋某と別れたのは別の男が出来たためで、しかしなんということか、その別の男が同じ高橋姓、プロレスラー並みの体を誇り、なおかつ、女房子供までいたというではないか。
逃亡生活などというと、地味でひっそりと普通は考えるが、彼女はまったくその逆で。イイネ、イイネ、イイーネ!
いまもなお逃亡を続けている高橋某。監視カメラのくぐり抜け方を研究していたらしい。
お蔭様で(?)、わたしは退屈を知らない幸せな男だが、彼も退屈を知らない人生を送っているようだ。