竹内銃一郎のキノG語録

ストーリーはハンバーグにおけるパン粉に過ぎない  「グランド・ブダペスト・ホテル」ノート③2015.03.18

「鳳城の花嫁」を見る。1957年公開。日本初のワイドスクリーンの映画。初見。監督は松田定次。例によって例のごとく。馬が走る、駕籠が走る。ひとも走る、群れになってまた走る、走る。ストーリーはまるでこれらの疾走シーンを成立させるための方便であるかのようだ。将軍につながる血筋の若様が(と言っても、演じる大友柳太郎はこの時、40半ばであったはずだが)、自らの花嫁を探すべく江戸に出かけて、あれこれありましたが、最後はメデタシメデタシといった、他愛がないというか、調子がよすぎると言ったらいいのか、ま、天下泰平、世界にはなにも問題はございません、というもの。でも、面白い、楽しい。ついでに書き添えておこう。若様の花嫁になるはずの長谷川裕見子 😳  の妹を演じる中原ひとみ。これが、卒倒してしまうほど可愛い 😯 !

ネットの「みんなのシネマ」といったか、そこには映画を見た人々の感想と採点が書き込まれているのだが、「グランド~」の評価の低さに驚く。寄せられた採点の平均が、10点満点で7点に届いていないのだ。評価の低い人々の感想は一様だ。曰く、「映像はきれいだけれど、ストーリーが面白くない」。彼らが面白いと思うストーリーとは、どういうものなんだろう? 「ハリーポッター」みたいなものか? そうじゃなくて? 「グランド~」のストーリーには<リアリティ>が欠けている? 物事がそんなに調子よく運ぶわけないでしょ? そういうことか?

映画や芝居や小説におけるストーリーとは、弁当箱のようなもの、というのがわたしの考えだ。あるいは、ハンバーグを作る時に「つなぎ」に入れるパン粉のようなもの。弁当箱は弁当を納める容器で、これがないと持ち運びに不便だし、パン粉がないとハンバーグはうまくまとまらないから、なくてはならぬものだ。とは言え。それは、先の「鳳城~」を例にあげれば、繰り返される疾走シーンを納めるための容器であり、つなぐための方便以上でも以下でもないのだ。要するに、「グランド~」をストーリーが詰まらないからNGだと非難するひとは、弁当やハンバーグそのものではなく、弁当箱やパン粉に<こだわり>が感じられないとイチャモンをつけているのだ。ま、わたしは「こだわり」って言葉が大嫌いなので、嫌味たらしくこういう形容をするわけですが。

おそらく、W・アンダーソンも松田同様、「グランド~」のストーリーに、彼らが求めるような、通常の意味での<リアリティ>を込めようなどとは、ハナから考えていなかったはずだ。しかし。「映画」が映画然としてあった古きよき時代を生きた松田とは違って、すでに、映画は幻としてしか存在し得ないと考える彼は、だからこそ、陳腐と言えなくもないその「お話」を納める三重の箱=容器を必要としたのだ。

だとしたら、それはなぜ?  (この稿、さらに続く)

 

 

 

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