竹内銃一郎のキノG語録

ナリスマシ 柴崎友香『わたしがいなかった街で』とわたしの新作について 2012.07.25

柴崎友香の新刊「わたしがいなかった街で」読了。
小説の単行本を買うなんて、もう何十年ぶりかも知れない。文庫で読んでる、というか、もう小説なんてほとんど読まない。
昨日。つい、東某という名前にひかれて「キャラクターズ」の文庫を買って読んだが、まったく箸にも棒にもかからない代物で。日本の小説、とりわけ純文学と称される類のものは、死と恋愛と、とどのつまりはわたくしごとばかり書いていて、それさえ書いてれば評論家も安心して批評を書けるしょうのないもの、みたいな批判を前置きにして、結局腐った業界内の瑣末なことを書き散らしているだけのものだが、そこで挙げられている主人公の敵・味方の固有名詞の大半は、コアなファンならともかく、わたしですら名前は知ってるけど作品は読んだこともないし、読みたいとも思わない作家・評論家の類で、例えると、サッカーのJ2の控え選手くらいの知名度の人々。なにチマチマしたことを書いているのか。その神経が分からない。
柴崎の新しい小説はこんな話だ。
主人公(のひとり?)の女性の引越しから始まる。彼女は35歳。引越しは離婚したためで、新居は以前、独身の頃に住んでいた世田谷の若林。彼女は契約社員で、近所に昔、同じ職場で働いていて友達になった、シングルマザーも住んでいる。
主人公は、家でひとりの時はいつも、戦争もののドキュメンタリーを見てる。時々アタマをかすめるのも、広島のホテルでコックとして働いていた祖父のこと。彼はたまたま原爆が落ちたときに、爆心地の近くにあったそのホテルにはいず、もしその時いたら、自分はこの世に生を受けていなかったのだ、ということ。
彼女は大阪生まれで、20台の一時期、カルチャーセンターみたいなところで写真を学んでいたことがあり、そこで知り合った同年代の男といまでもつきあいがある。でも、性的な関係があるわけでもない。ものすごく親しいのにキスもしない。
これがかえって変にエロティックなのだが。この男は定職をもたず、沖縄に行ったり山に入ったりと、昔懐かしい形容を使えば、風来坊的生活を送っている。
その他にも5歳くらいの子供から60台のおじさんまで、幾人ものひとが登場するのだが、いわゆるフツーということになってるひと、家族があって会社勤めをしていてというような、政府がありうべき家庭と想定しているはずの枠組みにおさまるひとはほとんど登場しない。そして、これがフツーなのだ。フツーなんて想定しえないことが。
ひと昔前だか、ふた昔前だか、自分探しなんて言葉が流行ったが、それは探せば「自分」が見つかることが前提にあってのことだったはずだ。でも、もうそんな、探せば見つかる「自分」なんてどこにもいないのだ。
うん? 中田ヒデはまだ探してる? なんなんだ、アイツ。
かの木嶋嬢もワタシではない、セレブになりすまし、秋葉原で事件を起こした加藤某も、ナリスマシテタラナリスマサレテ。

オウムの菊池某、高橋某も、ナリスマシテいたのは、逃げ続けるためにというより、もちろん最初はそうだったのだろうが、何年かが経過するうちに、櫻井某と名乗ってる方が足に地がついてるような感じになったからではないのか。みんな「ここにいるわたしは、わたしじゃない」と思いながら生きているのだ。憧れとか、自らの否定とか、そういうことではなく、その方が多分楽なのだ。
ドラボの次回の新作「蒸気愛論」は、まあ、こんな話です。
今日は前期授業の最終日。午前中は「戯曲研究」で、「1・2・3で『かもめ』を読む」なんて内容。これだけじゃなんのことか分からないと思いますが。4・5限は、「卒業戯曲」の個人指導。
これでやっと新作書くのに全力投球出来る。万歳!

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