竹内銃一郎のキノG語録

『東京公園』の退屈さと『赤いハンカチ』の浅丘ルリ子の素晴らしさは …2012.08.03

蓮実重彦の「映画時評 2009~11」の巻末に、青山真治との対談が置かれている。かなりの分量で、内容は新作「東京公園」について。
例の如く、蓮実の賛辞は大仰なもので、2011は大変な年になったが、この映画が公開されたことでも自分にとって忘れがたい年になるだろう、というような。
おびただしい数の固有名詞が頻出する。もちろん、その大半は映画監督の名前だ。「あそこは成瀬ですね」「あそこは小津の修正と言うべきでしょう」とか蓮実が言うと、青山は、そうですそうですと答える。ふたりのあまりの上機嫌ぶりに腹立たしささえ覚えたが、もしかしたら、これは下手くそな漫才と思えばいいのではないかと思い直して最後まで読む。
この本を読んで数日後、その「東京公園」をテレビで見る。ものすごく退屈。台詞のあまりの凡庸さに驚く。
映画の終わり近く、「きみは優しい。公園みたいな男だ。」みたいなことを言う。恥ずかしい。いかにもこれがテーマですと言ってるみたいで、とても恥ずかしい。これだけじゃない。全編テレビドラマで使われてるような、いろんな意味でリアリティを欠いた台詞。
先の対談で連発される成瀬巳喜男なら、この映画にあった台詞の半分以上は削ったはずだ。さっきネットで調べたら、書いたのは青山の周りにいる若いひとらしい。なに甘やかしてんだ。
ラスト近くの栄倉奈々と三浦春馬のやりとりは、それぞれのアップを切り返し切り返しする。これを蓮実は「小津の修正」と呼ぶわけだが、ここでの栄倉は確かに素晴らしい。しかし、他のシーンではCMで見る彼女とほとんど変わらない。この差異を監督は分かっていないのではないか。なぜ分からない? 小津がどうした、成瀬がどうしたと目が過去を向いていて、いまそこにいる栄倉を見ていないからだ。
大体、いったい誰に見せようというのだ、誰が喜ぶのだ、こんな映画を。監督に商業映画を撮る覚悟がない。だから退屈なのだ。商業映画を撮るには多分、口では殊勝なことを言いながら、腹のなかではそれをせせら笑っているような、性質の悪さが必要なのだ。以下に挙げる最近見た3本がその好例だ。
「赤いハンカチ」
裕次郎主演の歌謡映画。才人山崎巌が名を連ねるシナリオがうまく出来てる。ストーリーだけを取り出せばありきたりなのだが、謎解きの流れが巧みに仕組まれていて、アメリカ製のこの種の映画同様、気のきいた台詞が連発される。かっては刑事、いまは流しを演じる裕次郎が、まるで小林旭みたいに夜の町をギターを弾きながら歌うのには大笑い。最後のクライマックスシーンで、時間帯は夜なのに急にパッと明るくなったり。監督は枡田利雄。やりたい放題だ。しかし、この映画の最大のみどころは、ヒロイン浅丘ルリ子。とにかく可愛くてなおかつキレイ。最初は、おやじが甲斐性なしなので工場で働いているけなげな少女。それが、それから4年後、すっかり大人に変身。青年実業家の奥さんになってて、ミンクのコートなんか着て登場する。この時の浅丘とさほど年齢が変わらないはずの栄倉奈々に、これほどの離れ業が出来るだろうか? むろん、これは栄倉個人の能力や責任の問題ではないのだが。
「さんざしの樹の下で」
「初恋のきた道」を撮ったチャン・イー・モーの作品。「初恋…」は、映画全体の半分以上が主演のチャン・ツイ・イーのアップで占められているというスゴイ映画だが、この映画でもチャン・イー・モーの変態ぶりはいかんなく発揮されている。表向きはあくまでも、文革時代を背景にしたば哀しい恋愛映画なのだが、主役の男がなにかというとヒロインの足を触るのである。足フェチ映画。ヒロインを演じる女優さんが、浅田真央と石原さとみを2で割って5つくらい若くしたような、まあ、この世のものとは思われないような純真そうな女の子。だから、全編、見てはいけないものを見ているような感じで、それがわたしのようなオッサンの胸をときめかせるわけです。 ストーリーの詳細は省きますが、ラストシーンで涙を流さないひとは、ま、鬼でしょう。
「ジュリエットからの手紙」
イタリアはヴェローナにある、シェイクスピアの「ロミ・ジュリ」のジュリエットの家のモデルになったとされている(らしい)家のレンガ壁に、そこを訪ねてきた女性旅行者たちが、ジュリエット宛に自らの恋の悩みや人生の悩み等々を書いた手紙を貼り付けていく。そこをたまたま通りかかったアメリカから来た女性が、それらの手紙を壁から剥がして回収している女性を見て、どういうこと?と彼女のあとをつけていくと、彼女は<ジュリエットの秘書>として、それらの手紙の返事を書く仕事にたずさわるひとだった。そしてそれから …
これもまたうまく出来てる。ありがちな恋愛映画で、めまいを覚えるほどの作品ではないけれど。各所でひねりが効いていて、どうなるのかな? とストーリーの行く先に興味を持たせるように出来てる。タイトルもいいし。
アメリカから間もなく夫になる男と婚前旅行でイタリアにやって来る、ライター志望のヒロインを演じる女優さんがまたいい。名前は知らないけど。いかにも文章が書けそうで。そういう当たり前の説得力がある。キレイだし。
この3本、時代と国の違いはあれ、いずれも堂々とした純愛映画だ。「東京公園」の退屈さは、これらのように堂々と恋愛について語ることなく、過去の遺産を前面に押し出し、そんなにヌケヌケと語れるわけないでしょ、現代はそういう時代でしょと、嘯いているからだ。
要するにわたしはこう言いたいのだ、すかしてンじゃないよ、と。
どうでもいいけど、三浦春馬の容色すっかり衰えましたな。おっさんぽい。初めてテレビで見たときは、こんなにきれいな男の子が日本にもいたのかと驚きましたが。でも、あと20年30年経ってほんとのおっさんになったらいい感じになるかも。

一覧