道行の中で人魂が出てくると、思わず涙がこぼれる。 「ムーンライズ・キングダム」ノート⑤2015.04.08
サムとスージーの道行は、あたかも前回引用した多田道太郎の「口の文化論」(?)をなぞるかのようだ。
まず草原で出会うと、サムはスージーに「食べる?」と、<噛む>ためのビーフ・ジャーキーを渡す。それから道中、喉が渇いた時には、小石を頬張ると唾液が出るから口の中が少し潤うというサムの豆知識がご披露され、ふたりは、川の小石を拾って口に含んで<舐め>、そこからしばらく行ったところで釣りをし、釣り上げた魚を焼いてふたりで<食べる>。翌日。目的地についたふたりは、眼前に広がる海に感動したのか、「アアー」と大声で叫んで海に飛び込み、夕暮れになると、スージーが持参してきたプレーヤーで音楽を流して、浜辺で踊る。そして、抱き合い、キスをし、「フレンチキスは知ってる?」というスージーの言葉をきっかけに、ふたりをもう一度唇を合わせ、(実際には映されないのだが)互いの舌を<舐めあう>。こういう一連の流れの終着点として、尖塔での電流キスシーンが置かれている。そうだ。ふたりが最初に出会う前、サムは客席を抜け出す直前に、まるで一年後に起こる「口の道行」を予感していたかのように、なぜかペロリと<舌を出す>!
「曽根崎心中」について書かれた第二章は、水木しげる、三木成夫(解剖学者)、エリアス・カネッティ(ユダヤ系の作家・思想家)、網野善彦(歴史学者)、芥川龍之介等々、多種多様なジャンルのひとの言葉が次から次と紹介されていて、『変身 放火論』の中ではもっとも楽しい章になっている。「曽根崎心中」のお初徳兵衛が発する「アアこは」「オオあれこそは」という叫び声に注目し、著者は川田順造(人類学者)の論を参照しながら、次のように書いている。
文学がない社会は野蛮な社会だという思い込みがありますが、(川田によれば)初めに叫びがあり、その感情的な部分を全部落としてしまって、論理的なものだけを取り出してきたのがことばであり、それは声からことばへの堕落だという。(中略)声からことばへ、ことばから文字へ、文字から活字へと、コミュニケーシャン・メディアの歴史の過程で、みんな豊かになっていると思っているが、ホントはどんどん削ぎ落としている。
先に書いたように、ふたりは海に臨んで「アアー」と叫び、そして靴を脱いで、「1・2・3」というスージーの合図とともに海に飛び込むのだが、生まれて初めて見たわけでもない海になぜそんな叫び声をあげ、さらには、スージーの合図はなぜ笑っちゃうほどに手短だったのか。
「曽根崎心中」のお初徳兵衛は、心中の道行へ向けて家を出ようとする時、「合わせ合わせて身を縮め 袖と袖とを槙の戸や」という語りに乗せて、互いの袖と袖を巻き合わせるのだが、多田によると、「これは心中のシュミレーション、前もっての予感としての擬態」であるらしい。ということは? ふたりがことばにならない叫び声をあげ、そして、スージーの掛け声とともに海に飛び込んだのは、ふたりが教会の尖塔の上から飛びおりるための<意図せぬ>シュミレーションだったのではなかったか、と。
もちろん、ふたりの小さな旅=冒険の目的は、その昔この島に住んでいた原住民が発見したらしい<特別の場所>まで行くことであり、心中をしようなどとはこれっぽっちも思っていなかったはずだ。しかし、出発地である草原から、細い山道を抜け、川にかかったつり橋を渡り、崖を登り、というその道程が、当然のことながらふたりの距離をさらに縮めて、その先には死しかないのではないかと、見る者に不安と切なさをかきたてる。
一日目の夜。スージーは持参してきた本をサムのために読んでやるのだが、サムはパイプを<咥え>たまま眠っている。それに気づいたスージーはそっとサムの額にキスをし、彼の口からパイプをとって、ふたりの傍らで燃えさかっている焚き火にパイプの灰を落とす。この焚き火がまた死の予感に誘うのは、繰り返し引用している多田の「曽根崎心中論」に、心中の決意をしたお初徳兵衛の周りを飛ぶ人魂に関する、次のような件があるからだ。
人魂とは火のこと、火の幻想です。(中略)行き交う魂の過程が道行であって、道行に爆発するように、神秘なもの、象徴としての人魂、火の玉が現れる。
ま、焚き火と人魂を同一視するのは、いくらなんでもの感なきにしもあらずですが。