ウェスの映画のちゃんとしたところ 「ムーンライズ・キングダム」ノート⑥2015.04.09
ウェスの映画は、やれシンメトリーのカットが頻出していて面白いだの、色使いや衣装が独特だのと言うひとが多いけれど、そんなことは彼の映画の枝葉であって本質的なことじゃない。ストーリーが面白くないと言って彼の映画に不満をもらす<物語派>も困ったものだが、こういう<映像派>も同様で、この種のひとは、PVやCMのコセイ的な映像とウェスの映画は同種のものだと思っているのではないか。以前にも書いたが、彼の映画は「特別なもの」じゃない。ちゃんと書かれたシナリオをベースに、ちゃんとした俳優・スタッフを使い、古の映画に敬意を払いつつ、ちゃんと演出して作った映画に過ぎない。でも、大半の映画はそういう風に作られていないから、彼の映画は「特別」になってしまう。「ムーンライズ~」のワンシーンを材料に、その「ちゃんと具合」について書こうかと思う。が、枕として、まず保坂和志の次なる一文を。
つい昨夜も、NHKでかなり力の入ったドラマをやっていたのだが、”大事なことを二人の登場人物がしゃべる″というシーンがどうしても出てきてしまって、二人がまったりと夜景なんか眺めながら昔の話なんかしているそのあいだ、カメラは二人の表情をいったりきたりするだけで、こういう(柴崎友香の小説に見られるような)機敏な動きを忘れてしまう。(中略)この運動がなくて、(先のテレビドラマのように)同じ対象や同じ気分にとどまる作品は、ただ感傷的になることで読者(視聴者・観客)の満足感を演出することしか知らない。(「柴崎友香「きょうのできごと」河出文庫巻末の解説の一部。カッコ内はわたしが付け足したもの)。
サムとスージーは、草原を出発したその日から数えて三日目の朝に、スージーの両親やサムが所属していたボーイスカウトの隊員、島の警部等に発見される。その後、家に連れ戻されたスージーは母と、里親から受け取り拒否されて行き場のないサムは警部と、それぞれふたりきりで、彼らが引き起こした<事件>について語り合うのだが、こういう”大事なことを二人の登場人物がしゃべる″シーンでも、もちろんウェスは<まったり>させない。以下は、サムと警部のシーンをシナリオ風に素描したもの。
○警部の自宅兼仕事場・ダイニングキッチン
(サムは小さなテーブルを前に座っている。キッチンでは、警部がフライパンを振るいながら料理を作っている。) サム「問題になることは分かってた。それでも駆け落ちがしたかった。でも、あれだけは偶然だった。初めて会った時、ぼくらの間に何かが起きたのは …」 警部「語るね。その話は否定しないよ。否定もなにも子どもの話だ。」(と、テーブルにやって来て、サムの前にある皿にフライパンのソーセージをゴロンと乗せる。) 警部「(サムの対面に座り)認めるよ。きみはわたしよりずっと頭がいい。それは確かだ。だが賢い子どもでも、ソケットに指をつっこむ」 サム「(軽く頷いて)…」 警部「分別がつくには時間がいる。歴史が証明してる、ひとはミスを犯すものと。だからきみを守るのは大人の役目だ。(ビール瓶を手にして)一杯やるか」 (サムはコップを差し出す。注がれるビール) 警部「なぜ急ぐ? きみの前には人生が広がってるんだ」 サム「そうかも。警部は独身だね」 警部「きみもな」 サム「そうだね。‥恋愛経験は?」 警部「あるとも」 サム「どうなった?」 警部「片思いだった」 サム「ああ …」 警部「両親のこと、気の毒に。 …社交辞令だよ」 サム「(軽く頷いて)…」
どうでしょう、この簡潔さ! 説明的な台詞がなく、情緒過多な台詞もないのに、向かい合っているふたりがいま何を考えているのかが分かり、歳の差を超えたふたりの友情の芽生えも伝わってきて、感動してしまう。むろんそれは、監督ウェスの手腕あってのことだ。凡庸な監督が撮れば重くも暗くもなりそうな、こんなふたりのやりとりを、サムを正面からバストサイズで撮ったショット、サムの肩越しに警部を撮ったショット、テーブルを挟んだふたりを正面から撮ったショット、この三つのショットを的確かつ機敏に切り換えながら見せる。このシーンに特別なところなどなにもないが、こういう地味な(?)シーンをちゃんと撮れるところに、わたしはウェスの凄みを感じるのである。