「蒸気愛論」完結。たまさかの書く悦びについて2012.09.19
ふー。やっと「蒸気愛論」完結。前回のブログを書いた時点では、ここまで来れば遅くともあと2、3日でと思っていたら一週間近くかかってしまった。
冒頭のト書きを書いたのは、もう遠い昔のようだが、確かお盆明け。だから書き上げるのに一ヶ月ちょっとかかったことになる。昔は一週間で書いたのに。いや、もっと昔は、これは60分程度のピンク映画のシナリオだったがひと晩で書き上げたものだ。
速いからいい、時間をかければいいというものでもない。多分、今回のように上演時間にして100分くらいのものは、一ヶ月くらいで書き上げるのがちょうどいいのだ。理由? 特にありません。勘です。
前にも書いたような気がするが、別に好きで芝居をやったり台本を書いてるわけじゃない。いろんな事情やいきがかりがそうさせてるに過ぎない。でも、台本に「幕」とか「おしまい」とか書く時の達成感は格別だ。
また、わたしは具体的な執筆にとりかかる前に、かなり詳細なプロットを書くのだが、それでもいざ本編(?)を書き出すと事前の計画外の出来事がその物語上で起こる。たったひとつの台詞で右に行く予定のものが、左に走り去ったりする。世界でわたし以外に誰も知らないこの瞬間が楽しい。多分、こういうぞくぞくさせる快感があるから、こんなお金にもならないことを続けているのだろう。
前回のわたしのブログにマッツさんという方から感想をいただき、その感想の感想を聞かせてほしいということなので、以下簡単に記します。
もう半年ほど前になるのでしょうか。「朝まで生テレビ」で、橋下がひとりで、反橋下数人を相手に討論していました。結果は橋下の圧勝! 反橋下の人々、ほんとにしょうもないことを言ってた。具体的にはなんにも覚えておりませんが。ま、覚えておく必要のないことを言っていたのだと思います。マッツさんがお書きになってるような、関西の(?)貧乏臭い演劇人みたいに。想像力の欠如という言葉を批判の言葉にするひとこそが、想像力が足りないひとのように思われます。
話は脇道に逸れますが。先のTV番組でなぜ橋下が圧勝したのか。それは言うまでもなく彼の方が批判派諸兄よりも断然テレビに精通していたからです。批判派のひとりとして登場していた香山リカなんて、もしかしたらテレビタレントとしては橋下より長いんじゃないかと思うけど、こいつは橋下になんか言われると言い訳ばかりして。
テレビで言い訳なんかしたら、根性のショボイ馬鹿にしか見えないんですよ。
また、批判派は自らの主張の正しさは揺ぎないと思っていて、なぜかと言うと、自分たちは市民=弱いものの味方 だと思っているからです。いいことを言ってる、してるひとだと自分(たち)のことを思ってる。その醜さ、図々しさが画面に映ってしまう。
橋下は彼らのすべて逆を行ってる。だからあまりものを考えない大阪の人々はみんな彼を指示する。多くのひとは直感的に、ショボくて図々しいヤツは嫌いなんですよ。
政治のことはよく分かりません。正直あまり興味もありません。そこらへんはうちの学生たちとほとんど変わりません。ただ、商売柄ひとの顔には興味があって、だから前回あんなことを書いたのです。
自民・民主の代表だか総裁だかの選挙に出られる方々の主張は、彼らの顔ほどの違いはない。これくらいは分かりますけど。
亡くなったトリュフォーが書いた(インタヴューに答えた?)言葉にこんなのがある。
映画は勇ましい人間や男らしい人間を褒めたたえ過ぎてはいないか、と。(正確な引用ではありません)
そのトリュフォーが亡くなった時、かっては友人、ある時期からは敵対関係にあったゴダールがこんなスゴイことを言っている(書いている?)そうです。
トリュフォーは亡くなった。わたしは生きている。しかしそこにどんな違いがあるだろう?
あんまりカッコいいんで、今度の芝居の台詞に借りちゃいました。