竹内銃一郎のキノG語録

重苦しさの隣に滑稽がある  最近見たお芝居の話②2015.04.21

前々回で触れた「黒澤のドキュメンタリー」の中で、映画評論家の大御所(?)である佐藤忠男が、いつものように(?)おかしなことを言っていた。黒澤はドストエフスキーの「白痴」を映画化しているのだが、出来上がった作品は4時間半の超大作で、これを配給する松竹が監督に断りなく2時間半にカットしてしまった、という<事件>に関しての解説で。ドストエフスキーの小説のように重く暗い小説は、一般庶民に受け入れようはずがないと、松竹は判断して云々という彼の発言に、わたしは違和感をもったのだった。

確かに、世の多くのひとは、ドストエフスキーの小説は重く暗く深刻な内容のもの、と思っているのかもしれない。でも。いまわたしは、ドスの「悪霊」を最初から読み直しているのだが、この小説(光文社文庫版 亀山郁夫訳)では、3頁に一箇所くらいは、「異常」という言葉が出てきて、5、6頁に一度くらいは、登場人物が「飛び上がる」のだ。深刻どころか、なんの先入観も持たずに読めば、これはスラップスティックなコメディと受け止めるのが「常識」であり、フツーのはずだ。佐藤の読み方が間違っているというより、このひと、多分、ドストエフスキーの小説をちゃんと読んだことなんかないのだ。ドストエフスキーの小説には、以前に引いた多田道太郎の言葉をもじって言えば、「重苦しさの隣に滑稽(感)がある」のだ。

先月見た芝居は、コメディと言って差し支えないと思われる。登場人物はみな、死の予感に怯える原因不明の感染病者で、舞台は、彼らが隔離・収容(?)されている島の集会所(?)。お話は、そんな彼らの実情を面白おかしく描きながら進行していくのだが、これもまた、劇の後半、深刻な話になると、まったり感一色に染められる。前回触れた芝居もそうだったが、誰かがマジメな、テーマに触れるような(?)話を始めると、舞台にいる誰もが、校長先生のありがたいお話を聞くマジメな生徒たちのように、ほとんど直立不動で聞き入っているのだ。あたかもそうしなければならないかのように。

コメディならば、こういう深刻なシーンにこそ笑いが必要と考えるわたしは、やっぱりおかしいのだろうか? 毎度毎度ウェスの映画を引き合いに出すのも芸のない話だが、ウェスは、死を覚悟した少年少女に(最後の)キスをさせ、そして、ふたりの唇に電流を走らせる。これがコメディの王道でしょ。このセンスはチェーホフにも通じるものだが、しかし、多くのチェーホフ劇はクスリともさせてはくれない。それこそ、まったり感一色に染め上げて、作家が喜劇だと言っているのだから、笑いも入れなきゃという義務感からか、軽いと判断したシーンで、俳優を無意味にドタバタさせて哀れドツボに…、という芝居がほとんどだ。三谷の「桜の園」がその好例。

「かもめ」の2幕の終わりに、高名な作家であるトリゴーリンと、彼に憧れを抱く田舎の演劇少女・ニーナのふたりだけのシーンがある。「あなたみたいな有名な作家いつもどんなことを考えてるんですか?」みたいな、ニーナの、素朴と言えば素朴、下らないと言えば下らないこの種の質問に、トリゴーリンはいちいち真面目に答えるのだが。多くの演出家・俳優たちは、トリゴーリンの長台詞をチェーホフの作家としての告白と捉えているようで、まさにここでも、まったり感たっぷりのシーンに仕立て上げる。しかし。そんじょそこらの田舎娘相手に、それなりに名をなした作家が、なぜにかくも長々と自らの「作家論」を語るのかといえば、彼女に対する卑しい下心があるからに他なく、当人自身にもその自覚は当然あって、しかも炎天下、まったり出来る状況下であろうはずがない。首や額の汗を拭きながら熱弁を振るう中年男は、傍から見れば、ほとんど滑稽の極みにあるはずだが、多くのひとは「笑い」に通ずる、この「傍から見る」ということが出来ない。

繰り返そう、「重苦しさの隣に滑稽(感)がある」のだ。

 

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