竹内銃一郎のキノG語録

わたしの背中の殻には悲しみがいっぱい …②2015.05.08

ネットで、前回触れた美智子妃の「基調講演」の全文が掲載されているサイトを発見し、読む。例によって(?)、わたしが書いた内容とは微妙に違っていた。「でんでんむし…」はご自分で読んだのではなく、母親だか祖母だかから聞いたものだったようだ。また、後年になって何度も読み返したというのも間違いで、折に触れ、その話を何度も思い出すことがあった、というのが正解。また、美智子妃が「でんでんむし…」を朗読した、というのも間違いで、その内容を「正しく」語った、というのが正しい。もちろん、その後、ご自分で読んだからこそ、「正しい」読みをなしえたはずだから、わたしが書いたことに大きな間違いはなかったのだけれど。

それにしても。その「基調講演」の文章は驚くべきもので。この種のものにありがちな、説教臭さや美辞麗句に彩られたうそ臭さが微塵もない。タイトルは、「子供の本を通しての平和--子供時代の読書の思い出」というのだが、冒頭の挨拶のあと、さほどの間を置かず、「児童文学と平和とは、必ずしも直線的に結びついているものではないでしょう。又、云うまでもなく、一冊、又は数冊の本が、平和への扉を開ける鍵であるというようなことも、あり得ません。」というきわめて真っ当な、だからこそ、そう思っても、こういう場には相応しくないのではと、多くの人が語るのをためらいそうな文章が置かれている。優雅にして大胆。明晰にして平明。こんな、読み手の脳を優しくときほぐしてくれる、説得力のある文章(の書き手)を、わたしはあまり知らない。そうだ、これは正確な引用ではないが、「わたしは明らかに恵まれた環境下で育った子どもだが、そんなわたしでも、いつも心のどこかに、言葉にならない不安や悲しみを抱えていたような気がする」というようなことも語られていた。文は人なりというが、こういう文章を書けるひとだから、ああいう「お声」で語ることが出来るのだ。

「でんでんむしのかなしみ」は、こんな話だ。ある日、一匹のでんでんむしは、自分の背中の殻には悲しみがいっぱい詰まっていることに気づき、これではもう生きていけそうにない、どうしたらいいのかと、友だちのでんでんむしに相談に行く。と、友だちは、自分も同じだと答える。次の友だちも、別の友だちからの答えも同じだった。それで「一匹のでんでんむし」は、生きていくことはこの悲しみに耐えることだ、みんなそうやって生きているのだ、と理解する。

美智子妃や「でんでんむし…」の言葉、あるいは、「ひとは哀しい 哀しいものですね」と歌うひばりの歌を、もっとも深く受け止められるのは、例えば、大きな不安や哀しみや疎外感を抱えて生きてきたに違いない、「船橋の事件」に関わった若者たちや、「ヨットスクール」の生徒たちではないか、と思う。しかし。そもそも、彼らにこういう言葉を鋭敏に受け止める柔軟性・受容性があれば、愚行を繰り返すことなどしなかったはずなのだ。

彼らの頑なな脳と身体は、明らかに劣悪な環境の産物だ。しかし、そこから抜け出す自由を奪われていたわけではあるまい。でも? 自由への希求が頑なな脳と身体から生まれようはずもなく …。この哀しすぎる堂々めぐり。(この稿続く)

 

 

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