岩松さんの『月光のつつしみ』と「骨太のテーマ」には千里の隔たりがある2012.11.15
1年生の戯曲創作法の授業のテキストに使うべく、久しぶりに岩松さんの「月光のつつしみ」を読む。 「台詞の考察」というタイトルで、まあ、ただ思いついたことを台詞にすればいいって、そういうことではなくて、どういうことを考えなきゃいけないか、例えば岩松さんはなにを思ってここにこういう台詞を書き付けたのか、みたいな内容の授業。 戯曲の数ページ分をコピーして学生に配布。だからその部分の確認だけでもよかったのだが、せっかくだから(?)と全部読んだのだ。 前に一度読み、上演された芝居も見ている。それらの記憶と今回改めて読んで受けた印象とは、小さいとは言えないズレがあった。 ズレ? 登場人物たちの過剰とも思える繊細さ、というより、彼らを描く作家=岩松さんの神経があまりに繊細過敏でそのことに驚き、戦慄する。 正直なところ、上演された作品に今回ほどの衝撃を受けた記憶がない。 むろん、わたしの肉体的・精神的なコンディションの問題や劇へのアプローチが年々変わっていることもあろうが、それはとりあえず脇においても、衝撃を受けた事実は否めない。 ここに書かれた異様といって構わない繊細さ過敏さは、俳優の身体を必要としていないと言うのか、俳優の身体を邪魔なものとしていると言うのか、こんな繊細過敏な精神を持った俳優(人間?)なんてこの世に存在し得ないと言ったらいいのか。いずれにせよ、面白いとは思いつつ、上演された作品にさほど魅かれなかったのはそういう事情だったように、いまにして思う。 肉体はそこになく、声だけが、いや、文字だけが、遠い星(月?)からかすかにかすかに届けられる、そんな哀しい戯曲。 話変わって。先日、明らかに出来ない理由があるので、なんとなくメンドー臭い話になってしまうのですが。 わたしが結構高く評価した、X氏が書いたある戯曲があり、それをABCのお三方は、言葉は違うけれど似たような、わたしからすると驚くべき感想を表明した、と。 それがこれです。「骨太のテーマがほしい!」 評価の違い以前に、率直に言って、わたしは今時こんな言葉で批評をなすひとがいること自体が信じられないのだが。Aさんは日本の近代文学の研究者、Bさんはカフカだの村上春樹などを素材にして現在を語らんとしている(らしい)思想家(?!)、Cさんはれっきとした(?)演劇批評家です。 分からない。骨太のテーマってなんだ? カフカも村上春樹も現代演劇も、いや、A氏が専門としているらしい漱石ですら、そういうものがもう設定しえない、喪失してしまった、という前提から作品を書き始めてるのじゃないのか? 早い話、X氏の作品の真意を測りかね、かといってその理解が届かない自らを認めるわけにもいかず、三氏は言わば苦し紛れに水戸黄門の印籠みたいに居丈高にその言葉を持ち出したと、こういうことだと思うわけですが。 先に記した「月光のつつしみ」の繊細過敏さと、骨太のテーマという言葉との間にある、気が遠くなりそうな隔たり ……