竹内銃一郎のキノG語録

世界には言葉でしか明らかに出来ないことがある。2015.06.27

4月から視聴率調査の対象になっている。無作為抽出で選ばれたようだ。確率的にいえば、宝くじに当たるのと変わらない難関を突破したはずだが、だからといって得することはなにもない。それにしても。頂いたものはといえば、今のところボールペン一本。粗品の中の粗品である。納得がいかない。調査のための機器がなにか持ち運ばれるのかと思ったら、なにもない。なんらかの手段を使ってわたしのTVに接続し、データ収集をしているのだろう。覗き見されてるようで嫌な感じだ。よこしゃがれ、嫌な感じ料を。

そのTV。地上波はほとんど見ない。欠かさず見るのは、「今ちゃんの実は …」「うまンchu」という関西ローカルの深夜の番組くらい。他は、「NHKスペシャル」「ファミリーヒストリー」「プロフェッショナル 仕事の流儀」といった、手間隙=お金をかけたNHKの番組ばかりだ。TVは加速度的に詰まらなくなっている。

前々回のブログで触れた、『現代詩手帖 1988年2月号』に収められている「詩の言葉と広告の言葉」の中で、鮎川信夫は次のようなことを語っている。かいつまんでそれを示すと。

いまのひとたちは我慢する力が弱くなってる。文明の進歩と呼ばれるものがそうさせている。テレビを見ても、アテンション・スパン(注意持続力)が短いでしょ。ビジュアルやオーディオの発達がそれを促していると思う。これらの効果はとても即効的なんですよ。映像や音楽の効果は直接感覚に訴える。それ自体が刺激だし、快楽だし。でも、言葉や文字の効果はもっと間接的で、ある程度当人の知性や想像力がなければどうにもならない。だから、現代詩の読者が希少になるのは当然で。高級あるいは特殊なひとしか寄り集まってこないんですよ。わたし自身、最近はほとんど現代詩は読まなくなってる。云々。

この「講話」がなされたのは1985年だが、もちろん、この流れ、いわゆるサブ・カルチャーへの傾斜はこれよりずっと前から始まっている。誰もがSNSだのツイッターだのに勤しむようになったのは、この流れがあったからで、インターネットやSNSがいきなり「劇的に」世界を変えたわけじゃない。

「秘法」の解散を考え始めたのもこの頃で、それは、この「流れからの遅れ」を実感し、けれども、その打開策が見つからなかったのだ。転形劇場等、多くの劇団も90年前後に解散したが、その理由もわたしらと同様だったのではないか。

鮎川同様、わたしもすっかり芝居を見なくなった。詰まらないからだ。でもそれは演劇が高級化したからじゃない。大半が、「演劇の遅れ」に無頓着なように思えてしまうからだ。映像や音楽を前面に押し出した作りにしたところでどうなるものか。鮎川も語っているように、世界には言葉でしか明らかに出来ないことがあるのだ。そこにしか突破口はない。

ジタバタしなさんな。周回遅れのトップランナーを目指せばいいのだよ。

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