竹内銃一郎のキノG語録

だれに伝えん、わが悲しみ? …  チェーホフの『馬のような名字』(河出文庫)を読む2015.07.01

「血尿騒動」があって、いつ死ぬか分からないという当たり前のことに気づき、来る日も来る日も、家で本を読んだり映画を見てたりしたら脳が腐るぞという天の声もあって、週に一度はお出かけすることに決め、京都市立美術館の「ルーブル美術館展」に出かける。

20年ほど前になるが、フランス・パリには二度、合わせれば一ヶ月弱ほど行っている。でも、ルーブルは一度も入ったことがなかった。混んでるのを嫌ったためもあるが、それより、古い絵画に興味がなかったからだ。絵画に限らない。映画も文学も古いものを有難がる謙虚さがわたしには欠けている。

平日にもかかわらず、館内のひとの多さに驚く。さらに、その大半がわたしと同くらいの年配の女性であることにも。ほとんど「お婆ちゃんの原宿」こと巣鴨のとげ抜き地蔵通り状態。ま、平日の昼下がりにお出かけが出来るのは、その種のひとに限られるわけでもあるが。それにしても。「モナリザ」が来てるわけでもないのに、この人出はどういうことだろう? みながみな、それほどの美術(館)好きとは思えない。結局、古いものを有難がるということではないのか。7月半ばから、同じ美術館で催される「マグリット展」があるので、その辺のところを検証してみよう。

ついでなので、平安神宮と動物園にも足を伸ばす。こちらの方はともに閑散としていた。動物園は久しぶりだ。大和屋さんの住まいは「多摩動物園前」にあって、お宅にお邪魔した際に、何度か入ったことはあったが。もう30年ほど前の話だ。同じ頃だったろうか。萩原朔太郎の短編小説『猫町』の映画化(シナリオ化)を思い立ち、取材で彼の故郷である前橋に出かけたとき、市内の動物園に行った。それは公園の一画に、幾つか動物が入ってる檻や柵があるという、実にひっそりとしたものであったが。その中のひとつ、鹿だったか山羊だったか、その種の地味な動物の檻の前で、結構長い間、しみじみとしていたことを思い出す。

チェーホフの『馬のような名字』(河出文庫)を読み終わる。短編・中篇小説と戯曲2編、合わせて18編が収められている。チェーホフの小説は結構読んでるつもりでいたが、半分くらいは初見。そりゃそうだろう。彼は400だか500だかの作品を書いてるひとだもの。本のタイトルにもなっている「馬のような名字」は、実にくだらない、落語の小噺みたいな短編。笑わせる。「かき」「ワーニカ」「ねむい」はいずれも10歳前後の子どもを主人公にした、涙なくしては読めない切ない短編だが、でも、そこかしこに「笑い」をしのばせている。ふと、これら18編をひとつにまとめて芝居に出来ないか、と大それた思いにかられる。

前述したように、古いものを認めない基本姿勢がわたしにはあり、チェーホフを読んだのもそんなに昔のことではない。でも、改めて言うほどのことでもないが、いいものはいい。「ルーブル展」は想定通りの退屈なものだったが、チェーホフは …。いまもなお瑞々しさを失っていない。今回のタイトルは、『馬のような~』に入ってる「ふさぎの虫」のエピグラフである。

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