自由のむこう側 城定秀夫の「悲しき玩具 伸子先生の気まぐれ」を見る2015.07.07
映画監督の沖島勲が亡くなった。大和屋さん、足立正生とともに、若松プロの三羽烏と呼ばれた鬼才。初監督作品「ニュー・ジャック&ベティ」(1969年公開)でド肝を抜かれたことは、以前にこのブログでも触れた。
ネットで、「映画芸術」掲載の稲川方人との対談を読む。翌年(2009)一月に公開予定の新作「怒る西行」に先行して催されたものだ。この映画、沖島自身が、彼がよく散歩する玉川上水の沿道を若い女性とふたりで歩きながら、「東京の街について、あまりに簡単に変わり果てていく現代の風景に対する警鐘、モーリス・ド・ブラマンクや谷内六郎、西行法師、村上春樹、横尾忠則、つげ義春、若桑みどり、サンドロ・ボッティチェリなど様々な作家たちへの想い」(この映画の公式サイトより)について、ただ話してるだけのものであるらしい。なんと大胆不敵な! なぜこんな映画を思いついたかについて、沖島は次のように語っている。「(俳優等を媒介せずに)もう喋りたいことは自分で喋ってもいいんじゃないの、という気持ちになったわけです」(カッコ内は竹内付記)。この沖島の言葉に、先頃読み終えた佐伯啓思の「自由とは何か」(講談社現代新書)の中で引用されていた、「ざらざらした大地へ戻れ」というヴィトゲンシュタイの言葉が重なり、その先に(?)、城定秀夫の「悲しき玩具 伸子先生の気まぐれ」がある。
城定は、沖島と同様、エッチな映画を撮り続けている監督だが、sexシーンに笑いを忍び込ませるところが沖島映画と重なる。以前にもこのブログで取り上げた彼の傑作「隣の芝は」同様、この作品でも、古川(こがわ)いおりがヒロインの伸子先生を演じている。素晴らしい!
高校で現代国語を教える伸子先生は、最近お見合いで知り合った男(エリートサラリーマン!)と性的な関係を持ちつつ、その一方で、彼女に恋する男子生徒とも倒錯的な関係を始める。なぜそんな「道」から外れたことをしているのか。したいからしている? そういうことでもなさそうだ。彼女には自分がなにをしたいのか、それが分からない。教師になったのは、母に言わせれば「世間体がいいから」であり、お見合いも母の奨めに粛々と応えただけであり、男との関係も求められたからそうしているに過ぎない。
「自由とは何か」における佐伯の言を借りるまでもなく、「自由の実現」こそが現代の課題だが、しかし、普段の暮らしの中で、時に「不自由」を感じる場面があるにせよ、今日この国で日々、「自由が侵害されている」と感じている人々は少数派だろう。「それならば、われわれは自由を謳歌できているだろうか」と、大澤真幸が「生きるための自由論」の中で問いかけている。続けて、「ところが、どういうわけか、生はなお空虚で、閉塞感を帯びたものとして感じられているのだ。あなたは何をしてもよい、と言われる。ところで、私は何をしたらよいのか? 何をすべきなのか? 何をしたらほんとうに生きていることになるのか? そうした指針がまったく蒸発してしまったように感じられる。それが現代社会における自由の困難である。自由の過剰と自由の空虚化が同時進行しているのだ」
上記の心的状態を現代特有の「病」だとすれば、伸子先生はまさに典型的な現代病の患者だが、彼女にとって唯一の救い=クスリとなっているのが、男子生徒との不道徳きわまりない関係だが、長くなったので、その詳細は次回に。