竹内銃一郎のキノG語録

西村昭五郎の傑作『競輪上人行状記』と『帰って来た狼』2013.02.08

「どらいのなつゆめ」の稽古、本日で1クール終了。
プロ野球のキャンプが始まった。ニュースを見ていると、選手それぞれは自らの練習に工夫を凝らしていることがよく分かる。当たり前のことだが、ただ一生懸命ひたすら、力まかせにバットを振ったり、ボールを投げたりしてるわけじゃないのだ。どんな分野でもトップにあるひとは考える力のあるひと。例外は稀有なはず。
まず、自分(の作業)のどこに問題があるのかってことに気づく力が必要で、次に、その問題は、なにをどうすれば解決出来るかを考える、と。
でも、学生なんかに接していると、「自分の問題」が分からない。指摘されてももうひとつ腑に落ちない。だから、考えろって言われてもなにを考えたらいいのか分からない。一応稽古はしてる風なんだけど、その稽古には、本番で受けるには? みたいな目標設定しかないし、具体的になにをしていいか分からないままやってる。だから飽きるし、稽古は休み休みだし。逆に、変にマジメな連中は、頑張ることに意味があるんだみたいな精神主義に陥って、稽古をやればやるほどひどくなっていったりする。当たり前だ。100メートル走るのに、マラソンを走るような練習したってしょうがないのだ。
シェイクスピアは面白い。かなり乱暴に扱ってもびくともしない。
台本は、福田恆存訳をベースに、松岡和子、小田島雄志訳を参考にしつつ、わたしが書き換えた。
原作を知っているひとが見れば、聞けば、誤訳・違訳と形容したいほどの大胆な意訳に眉をひそめるかもしれない。原作にない登場人物も出てくる。芝居の途中で役が変わったり、ひとりの人物が複数に増殖したりもする。乱暴な扱いとはこういうことだ。
言うまでもなく、シェイクスピアが描いているのは昔の世界で、台詞には、いまどき誰も口にしないような言葉が散りばめられている。その言うなれば、いわゆる現代口語の対極にある台詞をいかに乗りこなすのかが、俳優の、演出の考えどころだ。この観点からすると、しょうもない駄洒落を連発する小田島訳は、どうにもいただけない。先生は大変な勘違いをしていらっしゃる。駄洒落は、シェイクスピア作品の重要なスパイスなのかも知れないが、スパイスが前面にしゃしゃり出てくるような料理ってダメでしょ。
前にも書いたか。シェイクスピアだのチェーホフだのを上演するのに、現代に置き換えてやるほど、ダサイものはにゃー。だって、シェイクスピアの時代は、親兄弟同士で殺しあうことなど日常茶飯事なわけでしょ。それをバックに書かれているものを、現代に移し変えてどうするんですか。現代だって、例の尼崎のおばさんがいる? おばさんの話がやりたければ、なにもシェイクスピアを借りなくても、まんまやればいいわけでね。キザな言い方になるが、現代をまっとうに生きてる人間がやれば、シェイクスピアだってチェーホフだって、時代を超え、国境を超えて、いまの日本の「現代劇」になるんですよ。
40年ぶりに、「競輪上人行状記」を見る。監督はこれが処女作の西村昭五郎。主演は去年亡くなった小沢昭一。ストーリーは、脚本に名を連ねる今村昌平好みの、エグイ話。ラストの15分くらいは圧巻。生きるか死ぬかの瀬戸際に立った主人公は、手持ちの金すべてを持って競輪場に出かけ、一発逆転を狙ってる。隣の席にいる女も同じような言葉を吐く。ふたりは互いを知らないが、勝負レースが奇しくも同じで、なおかつ、買った車券は、それぞれ2-4と4-2の一点勝負。レースを目で追う小沢昭一と、女を演じる渡辺美佐子の芝居が凄い。目が据わっていて、興奮のかけらも見せない。まるで飛んでるカラスを追っているような、ひどく日常的な佇まい。実際には知らないけれど、瀬戸際に立った人間はかくやと思わせる、怖いほどのリアリティ。 結局、主人公が勝って、負けた女は ……となるのだが、ラストシーンがこれまた凄い。
主人公は実家の寺を捨て、中学の教師時代の教え子(女子)とともに、全国の競輪場を股に、予想屋をやっている。袈裟を着て! ラストシーンは、そんな彼の口上=説法で締めくくられるのだが、まあ、これが! 浪曲師のようなだみ声で、ぽんぽんと客の神経を逆撫でするような言葉を撒き散らす、そのリズムの心地よさといったら、もうほとんど本場のブルースを聴いてるみたいなのだ。

ついでに。西村昭五郎はこのあとしばらく映画を撮れなくなってしまうが、それはこの映画が不評だったためらしい。アタマの悪いやつ、ほんと、許せない。
で、復帰第一作(違うかな?)が、前作と打って変わって、青春映画の傑作「帰ってきた狼」なのだ。
忘れられないワンシーンがある。ジュディ・オング演じるお金持ちのご令嬢と、その家の使用人の息子の許されない愛ははたして、という話だったと思うけれど。舞台は夏の湘南。浜辺でご令嬢が椅子に座って肌を焼いている。眠っている彼女に、貧乏人の息子がそっと近づき、持っていた蝶形に切った紙を彼女の二の腕に置く。時間が経過し。風のためか彼女の二の腕から紙は剥がされているのだが、その代わりに、白い蝶がとまってる。そう、そこだけ日に焼けなかったからそう見えたのだ。ふたりは周りの反対にあって別れなければならなくなる。別れたあと、彼女はふと自らの二の腕を見るんですね。そうするとそこには白い蝶がまだとまっていて、それで、この夏の切なく甘い思い出がまたよみがえるんです。
これだけでもちょっと泣けるでしょ。

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