竹内銃一郎のキノG語録

<文学>=「美談」 尾道紀行と天海の降板 2013.05.15

先週末、広島方面へひとり旅。あいにくの雨。尾道で一泊。映画資料館なるものあり。雨の中出かける。
少々がっかり。ネットでは、小津映画に関する資料がどっさり、みたいなことが書かれてあったが、うーん。入館料500円だからあまり無理も言えないんだけど。正直、みんなネットで確認出来るようなもの。
多分、維持をするのにギリギリの財政状態の中でやってるとは思うけど、市のバックアップとかないのかな? ここに来るために遠くから尾道に来る、くらいのことにしないと、どんどんショボルだけだと思うけど。無理なんだろうなあ。館内のあちこちに映画のポスターが貼ってあって、好事家の寄贈かと思われるが、貼ってあるだけで、テーマとかないしなあ ……
翌日は、雨止むも曇り。千林寺ロープウェイで頂上まで。美術館でルオー展をやっていたので見る。悪戦苦闘の歴史が見てとれて、なるほどと頷く。頂上は公園になってる。「文学のこみち」なんてのもあった。でも、こみちなんて可愛いものじゃなかった。下がぬかるんでたこともあったのだが、こんなところを通れというのか、と言いたい箇所幾つかあり。なんで文学かっていうと、途中、尾道に来たらしい文人たちの尾道について書いた詩やら短歌やらの石碑があるのだ。それだけ。
なに、石碑って!
いったい誰がこんなもん見て喜ぶの? なんでそんなもん立てるわけ? 立てられたひと、嬉しいわけ? 立てることがそのひとに対する敬意の証になるわけ? 石碑読んで、そのひとの作品を読んで見ようというひとがいるんじゃないかって期待してるわけ?
下りは歩き。公園のあちこちにこっぱずかしい名前をつけられた場所あり。例えば、「白いじゅうたんの丘」とか。誰がつけたのか。多分、白い花が咲いてその丘がじゅうたんを敷いたみたいになるからそう命名したんでしょうが。そういう状態を「白いじゅうたん」と見る、呼ぶ、そういう通常の感覚に照らせばちょっと恥ずかしいような、でも、分かりやすく俗っぽい修飾語・句からなるもの、それを多くのひとは文学と呼んでいるように思われる。改めてそのことが分かったような気がした。
むろん、それは<文学>であって文学じゃない。
ところで、どーなってんだ、あまみゆうき降板劇の真相は。おかしくないか? 楽日まであと4ステージしかなかったのに。普通、公演中止でしょ、こころある作り手ならばそうするでしょ。
卑しいわたしには、結局カネか? としか思えない。中止によって生じる欠損を避けたいと思ったとしか。
しかし、どのくらいの制作費がかけられたのか知らないが、4S分の減収は、せいぜい3千万くらいでしょ。もちろん、小額とは言えないけれど、再演すればお釣りがくるくらいの収入が期待できるんじゃないの? うん? 芝居がくそ面白くないから、いまやっとかないとってこと?
相変わらずマスコミは甘くて、当然の疑問にはまったく触れず、宮沢ガンバッタ! みたいな、要するに美談でまとめてる。
まあね。火事場の馬鹿力ってあるし、そもそも芝居はそんな力まで総動員しないと出来ないものだとわたしは思ってるから、2日の稽古でも出来てしまうことはよく分かる。わたしもそんなこと何度かあったし。ま、わたしの場合はホンが書けなくて…ということだったんですが。
滅多に見られないものを見たということで、客も満足して帰ったのかもしれない。でも、客が満足すればそれでいいのかって考えもある。先にも書いたように、演出家・スタッフ・他のキャストはは2日しか稽古してないものを見せていいと思ってるのか。いけない、恥ずかしい、と思わないのかという …
どうなんだ、野田秀樹!
今度のことを容認したら、客をというより、芝居をなめてるって言われても仕方ないんじゃないのか?
ひょっとして、アレ? きみも「美談=<文学>のこみち」派なの?

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