困難こそが「発見」につながる唯一の道 劇作の労苦②2015.11.03
一週間ぶりにブログを書こうとこのページを開いたら、一週間前に書いたものを「下書き」のままホッタラカシにしておいたことを発見! アララ。なので、さきほど「公開」致しました。
只今執筆中の「ランドルト環」。前回の繰り返しになるが、体調を崩してしまい、先月中に全体の3分の1を終わらせる予定が今月までづれ込み、昨日やっとシーン②「かわいい女」までを書き終える。
チェーホフの「かわいい女」は、河出文庫版の浦雅春訳では26頁の、文字通りの短編小説だが、推定20年に及ぶ「かわいい」と皆から称された女性の半生記(?)という、物語としては十分すぎるほどのヴォリュームがあり、必然的に、めまぐるしいと形容したいほどに場面が変わる。劇化する場合、これが実に厄介なのだ。映画やTVドラマならば、シーン・カットの切り替えやテロップ、ナレーション等を使うことで、時間の経過や場所の変化など苦も無く表現出来るのだが、芝居の場合はそうはいかない。というか、そういう手法を頻発する芝居も近頃は珍しくないが、それなら芝居じゃなくて映画を作ればいいでしょと思うので、わたしはそれは採らない。だから厄介と、こういう話である。
場面を小刻みにやたらと転換する芝居がある。昨日見た芝居がまさにそれだった。おそらく作者・演出家は自らに暗転による場面転換を禁じているのであろう、どの場面にも対応できるよう、舞台を抽象的にしつらえ、俳優たちは徒に動き回って、暗転を使わずに時間と空間の経過・移動を指し示す、と。メンド臭ぇ。こんなことするなら、戯曲の段階でもっと整理しとけよとわたしは思ったが、そういう手法が「新しい」「演劇的」とでも思っているのだろう。甘いというか古いというか、大変な考え違いをしてる。
話を戻そう。厄介はまだある。先にも書いたように、「かわいい女」は、NHKの朝ドラでもやれそうなヴォリュームがあるのだが、それを上演時間20分に圧縮して見せなければならない。もちろん、誰に命じられたわけではなくこれはわたしが勝手に決めたことだが、厄介②がこれである。
要するに、わたしはあえて厄介をしょい込んでおいて、苦しい苦しいと喘いでいるのだ。馬鹿ですね。しかし。この種の厄介・困難・面倒を面白がる性癖(?)の持ち主でないと劇作なんかやってられない。かのW・ベンヤミンも言っている。「正しい道は険しい」と。そう、厄介や困難や面倒こそが、新たな(方法の)発見を促すのだ。
なんだか鼻息が荒いばかりでこの文章には具体がないな。反省。(この稿続く)