敬意をもって接すべし。 劇作の労苦③2015.11.09
昨日今日と久方ぶりの雨降り。先週の水・木は、ふたりの姉夫婦と京都見物。総勢5人の平均年齢はなんと75歳! 嘘も隠しもない年寄りだから、わたしの立てたプランは少々過酷に過ぎるのではないかと、心配していたのだが、みな日々の運動怠りなく、へこたれる様子を見せずに全工程を乗り切る。総歩行距離はおそらく20キロ近くに及んだのではなかったか。
見物のメインは、20人乗りの船で保津川の急流を下っていく「保津川下り」。紅葉の盛りにはまだ早く、晴れの日が続いたせいで川の水量が少なく、「急流」と呼ぶにはいささか緩めの流れで、流れが速い時には一時間足らずで終点まで行くところを二時間近くかかってしまったが、それはそれですこぶる楽しく。
船頭さんが3人乗っていて、代わる代わる持ち場を変え、前方の魯を漕ぐ比較的仕事量の少ない船頭さんが、ガイド役になってあれこれ話をするのだが、これが! 推定44歳の船頭さんの喋りは綾小路きみまろばりで、乗船者全員終始笑いが絶えず、推定72歳の船頭さんもまた、渋い噺家のような語り口。「あれは猿飛岩と言いまして。猿があの岩からこっちの岩に飛ぶのでそういう名前になってるんです。まあ、わたしは40年近くこの仕事をしていて、まだ一度も見たことありませんが」なんて話をするのだが、なんともその間がよくて、吹き出してしまった。ふたりとも一流の芸人。比べるのもナンだが、あのUSJが退屈だったのは、このクラスのMC(でいいのかな?)がひとりもいなかったからだ。ま、年期の違いと言ってしまえばそれまでですが。いずれにせよ、乗る前は、船賃4000円は幾らなんでも高すぎないかと思っていたが、とんでもない。大変な「お買い得」でした。
ただいま執筆中の「ランドルト環」。ようやく体調も戻って、S3の「小役人の死」を書き終える。こちらは文庫本で6頁の超短編。タイトル通り、主人公の小役人が、自らのちょっとした「過ち」がもとで死んでしまうという、落語の小噺みたいな話だが作家の、主人公及び死との距離の取り方が実にクール=非情で、書きよう・やりようによっては後味の悪いものになりかねない。そこが難しい。スラップスティック風に味付けしたつもりだが、どうなんでしょ?
どういうことになっているのか。このところわたしの戯曲の上演希望が次々と舞い込んでくる。実にありがたい。これまでも繰り返し書いたが、上演の際、わたしは自分の戯曲をどう書き換えようが構わないと公言している。だって他人がやることだもの。一言一句変えずに上演するからと言って、作家の思い通りの舞台になるはずはなく。そもそも「理解」と「誤解」は同義語なんだから。でも。口幅ったい物言いになるが、作品には敬意をもって接していただきたいと切に思う。
敬意をもって対象に接する。これは、俳優が自らが演じる「役」に接する際にも、いまのわたしのように、原作をもとにして戯曲を書く際にも、いや、もっと広く、「仕事」をなす際には対象がなんであれ、もっとも大事な、必要欠くべからざる姿勢であるように思われる(敬意をもちえない仕事などしなければいいのだ)。前述の船頭さん達には明らかに「それ」があり、達者な話芸もさることながら、わたし達はどこかで「それ」を感じとって、だからみな、彼らの話に屈託なく笑ったのだ。
前回触れた「昨日見た芝居」は、実在の人物をモデルにしたものだったが、作者にモデルへの敬意が感じられず、結果、ワイドショーの再現ドラマと変わらない、品性に欠ける代物になってしまっていた。ご当人の「つもり」を知りたいところだが …。