ヴァレンティンを見に神宮へ2013.09.13
前回の訂正及び補足です。
荒川洋治の近刊は、「文学のことば」。こんなシンプルなタイトルを思い出せないとは!
「詩の被災」について書いていたのは、「詩とことば」。注文に応じてホイホイと、しかし内容はキマジメな詩や原稿を書いてしまう作家たち、自らの言葉こそがこの<想定外の特需>によって被災していることに気づかないのか、という…
佐伯啓思の著書の副題は、資本主義の精神分析ではなく、「資本主義の精神解剖学」です。似てますけど。
時々、わたしの戯曲の上演許可を得るための手紙などに、わたしの名を間違えて書いてくるひとがいる。
統一郎。これがいちばん嫌で。ムカッとなる。わたしの辞書には、<統一>なんて単語はないのです。
昨日は夏休みも終わりということもあり、久しぶりにナマ野球。ヴァレンティンのホームランを見に行ったのですが、不発。そうそうこちらの思う通りにはいかない。
神宮球場は学生のとき何度か六大学を見に行ったが、それ以来だから40数年ぶり? 長生きしてるなあ。ナマ野球自体も、横浜のホテルにカン詰になってたとき、全然書けないので横浜球場に行ったのが最後だから…。まだ故・加藤博一がバリバリの現役だったから、あれから何年経つのだろう。
広島の応援が凄かった。ビックリ。ビジターなのに、ひとんちの庭なのに、大騒ぎ。応援する声のヴォリューム・迫力がヤクルトの3倍くらい。初回からもう、ここが勝負どころみたいな、全知全霊を賭けてるみたいな血管切れそうな応援ぶり。これで9回まで持つのかなと心配してしまったが、ヤクルトの攻撃のときは休んで体力温存してる。なるほどネ。でも、どう考えても試合に出てる一塁手なんかより彼らの方がエネルギー使ってる。
ヤクルトの、東京音頭にのせて手にした小さな傘を上下させる応援、笑ったけど、東京音頭って曲終わりがしょぼるので、なんとなくヤッタ感がない。最後盛り上がるように、うまく編曲できないのかな。
そこへいくと、タイガースの「六甲おろし」とかジャイアンツの「闘魂こめて」なんか、いかにも応援歌って感じで。ともに、古関ゆうじ(漢字が分からない)の作曲。軍歌をいっぱい作ったひとですね。
ここにきて、ヴァレンティンの見方が変わってきた。わたしも、多分世間の多くも。
一昨日から読み始めた「神田橋條治 医学部講義」(面白い!)の中に、こんなことが書いてあった。
脳には、外界を認知するときに、すべての情報を全部一緒に入力して、それをプロセッシングしてある認知に達するのではなくて、対象に対してすでに持ってしまっているフィルターを通して情報を拾っていく傾向がある。彼・彼女がそう見えるのは、「そう思って見るからそう見える」のだ。
ま、先入観から自由になりなさいとおっしゃってるわけですが。
いまだに外国人選手=出稼ぎ=不真面目という等式にしがみついてる輩は少なからずいて、そういう目から見ると、守備・走塁にもたつき感があるヴァレンティンはやっぱり不良外人ってことになりかねないが、でも、インタヴューなんかの受け答えを見てると、意外と思えるほどのインテリ。好漢!
脳にかぎらず人間の様々な器官は、ひとが<生きる>ためにはどうしたらいいかってことで、作られ、機能 してるわけで、前述したことも、当然そういう働きがよりよい結果を導くからそうなってるはずなんだけど、切れすぎる刃物は危ない、ということでしょうか。