まあちゃんのおそうしき2016.01.15
先週の金曜、親戚の叔母の葬儀があって、田舎に帰る。久しぶりに会い見えるいとこたち。中には半世紀ぶりの再会という者もいて、誰が誰だか分からず。しかし、彼らの話の輪の中にうまく入れなかったのはそのためではない。彼らのように、いかにも市民生活をまっとうしているかに見えるひとたちを前にすると、わたしはなにも言えなくなってしまうのだ。
亡くなった叔母は父(8人兄弟の長男)のいちばん下の妹で、わたしが生まれた頃はまだ結婚前で家におり、農家の仕事で多忙だった母の代わりに、わたしのお守りをしてくれたのだった。それだけではない。叔母が結婚したとき、わたしは叔母の嫁ぎ先の家に一緒に行って、しばらくそこで生活していたのだ。どういう事情からそういうことになったのか、ずっと気になっていたのだが、父も母もそして叔母もみな亡くなってしまった今、とうとう解明の手立てがなくなってしまった。
わたしは長い間、その叔母の家に、一年近く暮らしていたと思っていたが、改めてあれこれの事実を重ね合わせると、せいぜい二、三カ月のことであったようだ。しかし。まだ幼稚園に入る前のことだから、多分5歳であったはずのこどもが、叔母以外は誰も知らない大人たちと、二、三カ月とはいえ、一緒に生活していたのである。しかもわたしは、母屋から離れた物置のようなところで、ひとりで寝起きしていたのである。そんなひとり寝の淋しさと恐怖を、5歳のわたしはどのようにして堪え、乗り超えたのだろう。
いずれにせよ、この時の体験が、家族という血縁関係とその延長線上にある地縁とを相対的なもの、ひいては、この世のすべての事象はかりそめのものとして見るわたしの世界観(?)を形成し、結果として、前述したいとこたちとは大きく隔たった、地に足の着かない生き方をわたしに選ばせたはずだ。叔母が焼かれて骨になるのを見届けて夕方、京都に帰り、土曜は終日競馬。亡き叔母の後押しがあったのか、久しぶりの大勝!
日曜は再び田舎へ。父と母と弟と三人まとめての法事があったのだ。姪の子供たち三人も列席。去年のお盆に会っているのだが、半年ばかりの間にずいぶん背が伸びていて驚く。結婚したばかりの甥の奥さんも列席。このひとはなんとベトナムの人! 長く生きてると思わぬことに出くわす。亡くなった叔母は頭脳明晰なひとで、ひょういひょいと名言を口にするのだった。あれは5、6年前であったか。お盆に集まったわたしたちや、まだ小さかった姪の子供たちを見て、こんなことを言ったのだった。「わしみたいな年寄りがいて、トクちゃん(わたしのこと)たちみたいないい歳の大人がいて、こういう子みたいな子どもがいて、みんなが一緒になって笑っとる。こういうのを幸せというだがね」
亡くなった叔母のことを、わたしたちは「まあちゃん」と呼んでいた。享年93歳。お世話になりました。