アキ・カリウスマキの好ましい変貌2013.09.26
録画していた「ルアーブルの靴磨き」を見る。監督のアキ・カリウスマキはわたしが敬愛する映画監督のひとり。彼の映画の大半を見ている。
最初に見たのは多分「コントラクトキラー」だ。その時点では、名も知らぬ監督の、それもフィンランド映画なぞ、なぜ見ようと思ったのか。誰かに薦められたのか、それとも、主演があのジャン・ピエール・レオだったからか。まことにおかしな映画だった。
理不尽なリストラにあうレオ。外人だからという理由でその対象になったのだ。職もない、金もない、頼るひともいないというわけで、自殺を試みるが、なかなか思うようにいかない。この件が笑わせる。
ガス自殺を思いつき、栓をひねると、シューとガスが吹き出る音。それがものの数秒で、音が消える。
と、次のカットが、ガス会社のストライキを報じる新聞のカット。つまり、ストのためにガスが止まり、自殺できなかったというわけだが、その新聞の片隅に、最近、殺し屋集団が暗躍しているという記事。それに惹かれたレオは、殺し屋の事務所(!)に行って、自分を殺してくれと依頼して ……というお話。
しつこいようだが、日本版「許されざる者」に徹底的に欠けていたのは、このスピード感だ。
スピード感という表現は微妙だ。だって、全然<走ってる感>はないのだから。
昨日、専攻の学生の「古典芸能」の授業発表を見た。今年は狂言。決して多くない稽古時間だったはずだが、みんなの懸命さが伝わってきて、好感をもった。
最後に、指導の茂山千三郎さんが弟子の鈴木さんと「柿山伏」をやってくれたのだが、ひとつの発見があった。いうまでもなく狂言は喜劇である。面白くなくてはいけない。ひとつひとつの所作が、たとえば歌舞伎の見得のように、決めたらマズイのだ。二枚目になってしまう。だから、決めているようで、そこにゆるみというのかたわみというのか、微妙な曲線が描かれなければならないのではないか、と。
アキ・カリススマキの映画は、どれも似ている。登場人物のほとんどは、社会の下の方でうごめいてる人々。あまり喋らない。おいしそうなものは食わない。美男美女は登場しない。
シーンの始まりの大半は、静止画風。カラー、モノクロを問わず、ホーと思わず吐息がもれてしまいそうな色彩感覚。ここ以外にないというタイミングで、選び抜かれた絶妙な音楽が流れる。そしてなにより、生きていることの惨めさが描かれているはずなのに、笑える、等々。
数年ぶりだと思われるこの新作は、おそらく彼の最高傑作ではないか。
タイトル通り、主人公は港町ルアーブルで、ベトナム人の青年とふたりで靴磨きをしている老人。家には妻と犬が一匹。当然のように貧しい。
ある日、港で、海から顔を覗かせた黒人の少年と出会う。老人は彼に、今日の昼食にと用意していたパンを差し出す。と、少年は海に潜ってしまう。振り返ると、警部(?)が立っていて、彼に、密入国した黒人の少年を見なかったかと問われる。老人が知らないといって立ち去ろうとすると、警部は、「忘れ物」と、老人が少年のために置いておいたパンを指差す。
子供の頃から、洋画に比べて日本映画はどうして台詞が多いんだろうと、それが不思議だった。
またまた「許されざる者」のリメイク版。くどくど台詞で説明した挙句、顔でもまた説明芝居をするからもう! おまけに泣くんだ、よく。柄本さんまで、ケンと別れの場面で顔をくしゃくしゃにして泣いていた。もちろん、監督の指示なんだろうが。わたし、恥ずかしくて正視出来ませんでした。
それにひきかえ「ルアーブル」。台詞が極端に少なく、でもなにが起きてるのか、起ころうとしているのか、とてもよく分かる。
スマートかつ野蛮かつ大胆な省略を次々と繰り出す。
黒人の少年が老人の家に訪ねてくることも、彼が老人の家に匿われることも、そして、近所の人々がそれに献身的に協力することも、すべてその間の事情・段取りは省略されていて、結果だけがボンと投げ出されるのだ。その小気味よさ。
老人は少年をなんとか母親が待ってるイギリスに送り届けたいと思い、奔走する。明らかに警察にマークされているのに、捕まったら罪に問われることは分かっているのに、彼がなぜそこまでするのか。分からない。台詞で説明してくれないし。わたしのような不人情な男には到底理解しがたいことだけれど、世界のどこかにはこういう、無償の行為を厭わない人々がいるはずだと思う。思わせる。この映画にはそんな力があるのだ。中盤あたり、話の成り行きが見えかけた頃から、もうわたしは胸いっぱいになってしまったのだ。
決めない、決まらない。常にゆるみ・たゆみを感じさせる、どこか間が抜けているカットとそして物語の流れ。この映画を優しさとか温かいとかほのぼのなどと形容してはいけない気がする。そんなあまちゃんな映画ではないのだ。
この映画の凄み、なんと形容すればいいのだろう ……?