竹内銃一郎のキノG語録

希望も絶望もないこの「今」をこそ …2016.02.06

「cocoon」を深追いするつもりはないのだが、頭に浮かんだことは文字化しておかないと忘れてしまうので …。

前回、「三里塚~」の人々の顔と、「cocoon」の冒頭で長台詞を語る女優さんの顔があまりに違うと書いて、前々回で触れた『現代思想 見田宗介=真木悠介~』にある見田の「現代社会はどこに向かうか(二0一五版)」を思い出したのだ。その内容を要約すると、

10年前に話題になった映画『ALWAYSー三丁目の夕日』の、「人びとが未来を信じていた時代」というキャッチコピーを引いて、「未来を信じる」ということが過去形で語られていることに着目し、この映画の舞台になっている1958年とこの映画が公開された約50年の間に、日本人の「心のあり方」に巨大な転換があったという前振りがあり。

次に、日本人の意識調査を参照しながら、15年刻みで世代を分け、戦争世代・第一次戦後世代・団塊世代の各世代間の意識は大きく離れているが、それ以後の世代である新人類世代(60年代生まれ)以降の世代間にはほとんど「意識」の違いが見られないことを指摘。さらに、「世界のエネルギー消費量の変化」を参照しながら、18世紀以降の加速度的な上昇・変化が、20世紀の半ばを過ぎた70年あたりを境に、一気に「減速」「停滞」となっている事実を明らかにして、先の新人類世代以降の差異の低さを重ね合わせる。つまり、団塊世代までは、歴史というものは「加速度的」に進展することを、当然の感覚として持ちえたが、その下の世代以降はその感覚がない、変化=希望的未来を想定することが難しくなっている、というわけだ。

1970年前後と言えば、まさに団塊世代の青春真っ只中で、大学闘争・三里塚闘争等がもっとも激しく、熱を帯びていた時代である。だからといって、わたし個人も、おそらくわたしと同世代の人々も、それほど素朴に「輝かしい未来」の到来を信じていたわけではないが、しかし、「なんだかんだ言ってもどうにかなる」という希望的観測を手放すことはなかったように思う(いまだに?)。この「希望的観測」ってヤツを、例えば「cocoon」に集った若者たちは持ちえないのだろう。あの、冒頭に長台詞を語る女の子の無表情は、まさにこのことを物語っていたのかも知れない。と考えると、なにやら哀れに思えてもくるのだが …。

彼(ジム・ジャームッシュ)は現在を生きる私たちが、未来に希望を持っていないことを『ストレンジャー・ザン・パラダイス』によって、はっきり見せてしまった。(中略)フィクションの時間はもう未来に向かって真っ直進まなくなってしまった。それはフィクションの構造にも、ストーリーやテーマの展開にも、両方にあてはまる。未来には希望も絶望もないけれど、「今」はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことができるのではないか。

上記は、これまでも何度か引用した保坂和志の、『きょうのできごと』柴崎友香著(河出文庫)の解説の一部である。因みに、『ストレンジャー~』が日本で公開されたのは1987年。

昨年末に触れた殿井歩の『(ユートピアだより』と『cocoon』は、いわゆる「静かな演劇」系統で、ともに、希望も絶望もない「希薄な生」を生きているという認識から生まれた作品であろう。しかし、アレとコレとへのわたしの評価が、なぜこのように違うのか。それは、前者の視線が酷薄な「今」をとらえているのに対して、後者のそれが「過去」に向けられていること、そして、ざっくり言ってしまえば、前者には明らかに既成の演劇を踏み越えているかに見える刺激があって、すでに手垢のついた劇スタイルを、疑いもなく(?)受容してしまっている後者には、さほどの刺激も感じないからである。

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