最近、あっちゃこっちゃでこんな話をした。 演出ノート③2016.02.20
客はね、見てるの。だから「観客」っていう。もちろん、聴いてないわけじゃないけど。人間は外部の情報の70%を視覚から得ている。対象の良し悪し、安全か危険かを、ほとんど目で見て判断してる。視覚優先が基本だから、例えば、舞台中央でAが長台詞を喋ってるその後ろで、Bがちょろちょろ動いてたら、AよりもBの方に気がいってしまって、Aが語ってる内容の何割かは観客に届かない。
同様に、動き回りながら台詞を語られると、観客はどうしても動きの方に気をとられるから、台詞が入ってこない。だからって、動きながら台詞を言うなって言ってるわけじゃないんですよ。ひとは動かないものより、動くものに目を奪われ、惹かれる。動かずに観客の視線を釘付けにするなんてことは、相当な技量がなければ無理なわけで。動くべき時に動き、動くべきじゃない時は動かない。動くと見せて動かず、動かずと見せて動く。それは結局、台本・戯曲の読解から選択・判断するしかない。ま、言うは易しってやつだけど。
常に差別化=差異化を考える。Aが登場して、次にBが登場するとすると。例えば、ABの歩く速度は同じでいいかどうか、とか。Aの登場と退場も、Aの二度目の登場も、歩きの速度だけに限定しても、どう同じでどう違うかを考えなきゃいけない。もちろん、その理由=必然も。それらの登場退場によって、その場の空気はどのように変わるのか、変えるのか。あるいは、Aが長台詞を喋っていて、それを5人が聞いている場面があるとして。Aはそこにいる5人にどのように台詞を投げかけるのか。黙っている5人はそれぞれどのように聞いているのか。それぞれ差異化を計らなきゃいけない。それは気持ちじゃないんですよ。気持ちだのつもりなんてものは、見えないから。身体によって具体的に、他人=観客が見て分かるように、差異化しなきゃいけない。
自由にやればいい、という考え=指示は間違ってる。そもそもひとは<自由>になんか考えられない。誰もがすでになにかに染まってしまっていて(=縛られていて)、しかもその事実に気づかずにいたりする。自由(な状態)を実感できるのは、不自由(な状態)から脱しえた時以外にない。健康であることを喜ばしく思えるのは、病気やケガ等から遠ざかりえた時しかないのと同じだ。
演劇は複数の他人との共同作業によって成立する。そのためにはルール=規律=方法を共有する必要がある。ルール=規律=方法は間違いなく、縛り=拘束するものとして機能するはずだ。いうなれば、それは<不自由>を現前化するもので、だから、厳格かつ厳密であればあるほど、それを乗越ええた<自由>の喜びは大きくなるはずだ。しかし。ルールだの原則だのというのは、守るべきものではなく、踏み越えるためにある。それはみんなで共有するスタートラインであって、ゴールじゃない。ここんところを勘違いすると、不自由のドツボにはまってしまうことになる。 (続く)