志ん生の噺は無頼の匂いがするのだ。 落語「あたま山」を聴く2016.02.25
二匹の蛇が絡みあい、互いに相手を飲み込もうとせめぎあっているため、近くに寄って見なければ、それが二匹の蛇だということは分からない。「あたま山心中」はそんな戯曲で、二匹の蛇とは、落語の「あたま山」とメーテルリンクの「青い鳥」である。おまけに、クライマックスにさしかかるところで、深沢七郎の「楢山節考」の引用が入って、最後はほとんど場違いとしか思えない、天野忠の詩で締めくくられるのだ。
いったいどこからこんな奇想が生まれたのか。今となっては自分でも分からない。分からないからこそ「奇想」と言えるのだろうが。おそらく、この構想は当初から考えられていたことではなく、書き進める困難の挙句、苦し紛れに、それこそ火事場の馬鹿力=脳内麻薬によって「発見」されたものだろう。
もう少しで、いまの書式であと1枚でこの戯曲の改訂は終わるのだが、なんとなく名残惜しくて(?)、とりあえず残りは明日書くことにし、ユーチューブで、先代林家正蔵、枝雀さん、志ん生の落語「あたま山」を見る。二週間くらい前にも見たのだが。当然のことながら三者三様の演出がほどこされている。
戯曲の中で使用してるのは、中ではもっとも穏当な正蔵のものだが、今回の改訂では、一か所だけ、志ん生のものを取り入れた。正蔵の噺では主人公に名前はないのだが、志ん生は彼に「けち兵衛」という名前を与えている。もちろん、彼がケチだからだが、このベタベタなセンスがおかしいので使わせてもらうことにしたのだ。
三人の中ではやっぱり志ん生が一番だ。枝雀さんの噺も、いかにも枝雀さんらしい仕上げになっていて、映像はないけれど例のオーバーアクションが想像出来て、笑える。しかし。主人公が最後に、自分の頭の上に出来た池に飛び込んで死んでしまう、というのがこの噺のオチで、枝雀さんはそれを「死んじゃったあ~」と明るい声で語るのだが、その明るさが逆に切なく思えるのは、彼の自死と重なってしまうからだろう。そのこととは別に。志ん生にあって枝雀・正蔵にないもの、それは無頼の匂いだろう。
広辞苑で「無頼」を引くと、「正業につかず、無法な行いをする者」とあって、落語に登場する庶民の大半はこの種の人間で、つまり、飲む・打つ・買うの「三道楽(だら)煩悩」にうつつを抜かす連中。もちろん「あたま山」の主人公もまたしかり。だから、この無頼の匂いなくして落語は成立しないともいえる。志ん生のギャグにはいまでも立派に通用するモダンさがあるが、いま聴いても面白いのは、彼の落語には、例えば「柳田格之進」のように真面目な侍を主人公にした噺でさえ、終始、無頼の匂いが漂っているからだ。むろん、これは芸の力云々を超えた、ひととしての<生き方>の問題である。
凄い芸人(役者も作家も?)は、みんなやくざ(的なひと)だ。間違イナイ。