ト書き、拘束と抑止のための 演出ノート④2016.02.29
先週の金曜日にめでたく、「あたま山心中」の改訂版脱稿。改訂といっても全体の数%で、削ったり書き換えたりした台詞の多くは、「え?」とか「ああ …」といった一音二音の、台詞とは言えないような類。台詞の方はそんな微細な作業に終始したが、ト書きがかなり増えている。
昔は、ト書きは必要最小限にとどめるようにしていた。理由は挙げればいくつかあるが、最大の理由は、書いていてちっとも楽しくないからだ。読む方も多分、ト書きなどすっ飛ばして読んでるのではないか。はばかりながら、わたしがそうだ。小説なども、地の文はほとんど斜め読みである。これは以前にも書いたような気がするが。ブルトンがドストエフスキーの「罪と罰」について洩らした「(わたしが)行くつもりのない場所のことを、なぜこんなに細々と書くのか」という感想・批判に、わたしは同感する。それはさておき。
ト書きに関する考えが変わったのは、この数年のことだ。それはおそらく、十年余にわたって、学生相手に芝居を作っていたからだろう。率直に言って、彼らはおしなべて<へたっぴ>であった。<へたっぴ>はとにかく台詞を言いたがる。改めて言うまでもなく、言葉は身体から出て来るわけだが、へたっぴ=<台詞を言いたがり>は、台詞を言うことに大半の意識とエネルギーを注ぎ、肝心かなめの身体をお留守状態にしてしまうのだ。ト書き、それも、「立つ」「座る」「○○を手にする」等々の具体的な所作に関するト書きを書くようになったのは、この事実を踏まえてのことだ。つまり、ト書きによって俳優に身体を意識させ、身体による台詞の分節化を促すことが出来るのではないかと、考えたのである。
かといって、「ここで立ち上がり」と書かれているからといって、そのようにしなければならないわけではない。そのト書きの前に立ち上がるのもよし、ずっと立たずにいるのもよし。「してみてよきにつけ」である。ト書きはあくまで、俳優の身体への意識の促しに過ぎない。前回にも書いたが、ひとは不自由を強いられた時に初めて自由を希求し、その不自由を強いるくびきを自らの力ではねのけた時、初めて自由を実感するのだ。俳優を拘束・抑止し、自らの身体を意識させるもの。これがト書きに関するわたしの基本的な考え方である。
「一調二機三声」という言葉がある。これは世阿弥が考える発声の基本だ。即ち、まず自分の中でこれから発する声の音量・音程、テンポを調え(一調)、次に、十分に息を引き、声を出すタイミングを計って(二機)、声を出す(三声)。声=台詞を発するにも、これだけの拘束・抑止があり、この道のりを踏めば必然的に、自らの身体を意識せざるをえないはずなのだが …