竹内銃一郎のキノG語録

「きれい」と叫んだ推定二歳半の子ども  ことばをめぐるアレコレ①2016.03.07

日曜日の朝。TVをつけると丸川環境大臣がなにか喋っていた。おそらく福島の除染がどうこうという話だったと思うけれど、具体的になにが語られていたのか覚えていない。それはわたしの記憶力の衰えのせいではない。なにごとかを語る彼女の顔・声・言葉のすべてがあまりに薄っぺらで、そのあまりの薄っぺらさに驚いて、語られる内容がまったくこちらに伝わってこなかったのだ。そして一か月ほど前、彼女の語る言葉と対極にある言葉を耳にし、目撃したことを思い出した。

近所の商店街を歩いていたときのことだ。突然、「きれい」という言葉が耳に飛び込んできた。その言葉の主は、わたしの10メートルくらい前方を歩いていた、推定二歳半の男の子だった。花屋の店先で立ち止まり、一緒に歩いていた母親に、花を指さし、もう一度、「きれい」と彼は言った。それに「ああ、きれいやね」と母親が応えると、彼はもう一度、「きれい、きれい」と繰り返した。

彼が三度放った「きれい」は、それぞれ微妙なニュアンスの違いがあったように思われる。おそらくと、わたしは想像するのだが、彼は最近その言葉を覚えたばかりなのだが、花を目にしたとき、思わず「きれい」という言葉が出てしまった。これが最初の「きれい」。それに母親が反応したので、自分の<選択>が正しかったのかどうかを確認するために、もう一度「きれい」と言い、母親の同意を得たので、その言葉を自分の身体に収めるために、「きれい、きれい」と言ったのだ。つまり、一度目は誰かに伝えようと思ったわけではなく、<思わず>出てしまった言葉で、二度目は母親に、三度目は自らにと、それぞれ言葉のベクトルの方向が違うのだ。それにしても。

言うまでもなく、言葉はひとが生きていくための必須アイテムだ。生まれながらにその自覚を持っているのか、生まれた後にその事実を突きつけられるのか知らないが、いずれにせよ、生きていくために、必要に迫られてひとは言葉を必死に覚えるのだ。だから、まず覚える言葉は<食>に関するものであり、その食を与えてくれるであろう、ママだのパパだのということになるのだ。だから余計に、おそらくまだ数えられるほどの単語しか習得してないはずの二歳半の子どもが、「きれい」という、とりあえず生きていくために必須とは思えない言葉を口にしたのが不思議で、なおかつ、感動的なのだ。そして、彼がその言葉の存在を知った経緯を考えると容易に、彼の恵まれた環境が想像出来、ただの通りすがりの者でしかないわたしまでもが、いいようのない幸福感に包まれたのだ。

丸川の言葉が薄っぺらになったのは、例の「失言問題」が尾をひいているのだろう。だから、当たり障りのない話に終始し、言葉はさらさらと春の小川のように流れているのだが、結局はなにも言っていないのと等しいことになり、要するに、言葉を費やせば費やすほど、自ら(の身体)を疎外し、その結果が、<薄っぺらい>になったのだが、しかし。

これは丸川にかぎったことではない。ひとは誰も言葉との格闘の日々を送っていて、そのしんどさに堪えかねて、当たり障りのない<薄っぺらな>言葉へと流れてしまう。わたしにだってその自覚はあり、だからこそ、推定二歳半の男の子が放った、生まれたばかりの<生(き)の言葉>に心が動いてしまったのだ。

 

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