言葉の意味でもストーリーでもなく … 演出ノート⑤2016.03.14
一週間ほど前から、観世寿夫の『心より心に伝ふる花』(白水社・刊)を読んでいる。巻末に1991年7月発行とあり、ということは、四半世紀ぶりの再読だから、ほとんど初めて読むような感じで読み進めていたが、「第二部 能の心」あたりから妙な具合になる。
わたしが考えること、あるいは、このブログに書いている言葉のすべては、わたし以外の誰かが考えたことであり言葉であって、わたし独自の考えなどこれっぽっちもないと言っていい。もしも「独自」なところがあるとすれば、優れた先達の考え・言葉を、自分の寸法にあうように編集しているからで、おそらくそこに誤用・誤読が含まれているからだろう。先の「妙な具合」というのは、影響を受けた先達のリストから洩れていた観世寿夫の言葉・考えが、そっくりわたしの中にあり、わたしの血となり肉となっていたことが、この書を読んで判明したからだ。例えば、「能はなにを言っているのか、(モゴモゴうなっていて)よく分からない」という、よく聞かれる批判に対して、こんなことを書いている。
「芭蕉」という曲の「それ非情草木といつぱ、無相真如の体、~」といった部分などになると、たとえその言葉としては正確に、ムソウシンニョと聞こえたとしても、それから直ちに、無相真如の文字を思い浮かべ、形相を超えて存在する絶対真理、という意味だとわかってもらえるとは、とうてい考えられないことです。(作られた当時においても、この事情は変わらないはず。カタリのように普通の芝居のセリフに近いものはともかく、こういうところは)断片的に出て来る単語や慣用句によって、その一段の、全体的なイマージュさえ感じられれば良いので、一つ一つの言葉の意味は必要でなくなってしまうのではないかと思います。
続けてこんなことも。
(能にも単純な筋書きはあるが)しかしそのストーリー自体は単にその曲に入って行くための手掛かりに過ぎないので、(曲の進展に従って、シテの人物が誰なのかも含め)大した問題ではないといったものになってしまうことが多いのです。
言葉の意味もストーリー(の展開)も大した問題ではない。では、能にとってなにが「大した問題」なのか。
世阿弥が彼の伝書の中で再三のべている、歌舞の二曲を中心とした考え方も、言葉(=観念的な伝達手段)にたよるより、音と動きによって、はるかに微妙で深淵な美しさを表出することを考えついたためだと思います。ですから能を演奏する技術は、筋書きにもとづいた心理描写や感情移入によって、その役になるということとは異なったものなのです。(中略)それは意識的なドラマの世界から飛躍して、音と動きの中に身をゆだねることに他ならないのです。(中略)演ずる側においても、また観能の手引きのようなものでも、大部分は能をドラマとして扱っている場合が多いのですが、(中略)能の美しさはいわばドラマを超越した所から生まれて来るところの、生命感といったものを考えています。
ずいぶん端折ってしまったが、これが観世寿夫の能に関する考えの基本で、なおかつ、畏れ多くも(!)わたしの劇に関する考えの基本でもある。いや、わたしだけではない。わたしの手元にあるのは新書版で、単行本として刊行された1979年当時には、少なからずの演劇関係者がこの画期的な書に刺激を受け、影響されたはずだが、いまはもうこんな先見的な考えがあったことさえ、ほとんどの演劇関係者は忘れてしまったか、あるいは、まったく知らないかだろう。で、現状はどうなっているかと言えば。見た目はいかにも新しげだが、まるで19世紀に戻ってしまったかのような、チェーホフ以前の、古臭い芝居が大手を振ってはびこっている、と。これが情けない。