韓国映画「トガニ」の映画的工夫2013.11.18
韓国映画「トガニ」。モデルになった事件があり、その事件について書いた小説が原作となっているらしいのだが。
ひどい話だ。視聴覚に障害を持った子供を預かっている学校の校長と教員が、日常的に子供たちをレイプしていて、その事実を子供が警察に訴えても、校長から金を貰ってる彼らは、握りつぶしてしまう。
校長は町の名士で、敬虔なキリスト教徒として知られているひとで …
そんな学校へ、ソウルから美術の教師が赴任してきて、その事実を知り、人権センターの女性と協力して、この事実を訴え、裁判に持ち込むが ……
というお話。
メッセージ性がきわめて強い映画だが、そういう社会性を抜きにしても(?)、映画としてとてもうまく出来てる。とてつもなく重い話を、緊迫感に変えて、その重さから観客の目を逸らさせない。
こんな話を実際に目の当たりにしたら、生きているのが嫌になるようなものだが、しかし、これはあくまでも映画でフィクション。このことを確認出来るから、わたし(たち)は見続けることが出来るのだ。
映画的な仕掛け。
例えば、最低な校長には双子の弟がいて(学校の事務方のトップ)、同じ俳優が演じているのだが、この鏡像関係がとても映画的だ。ふたりは校長室でそっくりに並んでいる。笑ってしまう。
裁判で、きみを犯したのはどっちだと弁護人が女の子に問うと、ということはつまり、校長が犯人ではない可能性もあると言いたいのだが、彼女は手話で、ふたりを前に、「このことを誰かに話したら、おまえを殺す」と話す。それは彼女が犯されるたびに、校長が彼女に手話で語ったことなのだ。で、彼女の手話に思わず反応してしまった方が校長だ、と指差す。双子という設定をうまく使ってる。
発音しないことが語る豊穣さ。前にここにも書いたことがあるような気もするが、
ずいぶん昔、夜遅い電車の中で、聾唖と思われる若い男女が手話でなにごとかを語っていた、その時の、ふたりの間に流れる空気の濃さ、親密さはあまり見たことのないもので、よく出来た映画の一場面を見たようで、わたしはものすごく感動してしまったのだ。
映画の台詞は最小にすべし。
どこまでが事実で、どこがフィクションなのかは分からない。が、繰り返される逆転劇といい、悪役の造形といい、いわゆる商業映画・大衆映画の王道も踏んでいて、映画監督としてのしたたかさも感じられ好ましい。
もっとも好きな場面。やはり裁判シーン。友達と別れたあと、すぐに悲鳴が聞こえ、行ってみると友達が校長に ……という女の子の証言に、被告の弁護人が、聾唖なのに聞こえたとはおかしくないかと問う。と、時々微かに聞こえることがあるのだと答えると、じゃ、と言ってカセットを取り出し、聴こえたら手を上げろと言って音楽を流す。裁判所に音楽が流れる。韓国の流行歌みたいな。と、ヴォリュームが落ち、ノイズまじりにその音楽が変わって …、すると、彼女がゆっくりと手を上げる。弁護人がスイッチを切る。と、彼女は手をゆっくり下ろす。また音楽を流す。と、彼女はゆっくり ……
こういうのを映画的な、サスペンスフルな時間というのだ。
聾唖者を演じた子供たちがとてもいい。いずれも本物かと思わせる好演。
裁判の結果、話の結末の詳細はここでは書かないが、ラストで、人権センターの若い女性が、いまは遠くに住んでいる(ソウル?)元美術教師の男にあてた手紙にこんな言葉を書く。
わたしたちの闘いは、世界を変えるためではなく、わたしたちが世界に変えられないためなのだ、と。
泣いちゃいました。