内なる声が呼び合い響きあう、短編連作小説。 『しかたのない水』を読む2016.04.05
MODEの公演二日目に佐野(史郎)さんが来て、久しぶりに歓談。その際に薦められた、井上荒野の『しかたのない水』(新潮文庫)を読む。井上荒野は井上光晴の娘さんで、わたしと佐野さんとの初めての仕事となった映画『TOMORROW/明日』(黒木和雄監督)は、その井上光晴の小説が原作である。
光晴の『明日』は、1945年8月8日の長崎が舞台。その日に行われたささやかな結婚式の新郎新婦、その家族、参列者たちが、原爆が投下される前日をそれぞれどのように過ごしたかを、オムニバス風に描いた作品だが、荒野の『しかたのない水』も、東京近郊にあるらしいフィットネスクラブに集まる人々の生態を、セックスをその核として、こちらは一話完結の短編6作にまとめている。
小説というものをほとんど読まなくなってしまった。日本の現存する小説家のものとなると、多分、保坂和志の『未明の闘争』が最後だ。あれも、読んでもう3年になるのではないか。
久しぶりに読むこの小説は、6作それぞれ主人公(?)は違うが、いずれも<俺・わたし・僕>という一人称の視点から描かれていて、となると必然的に(?)、主人公の著しく主観的な思いが<内面の声>として語られ、それが作品の中では重きをなすことになる。ひとは自分のことなど分からないのに、そんなものに重きをおかれても …と思わぬではないのだが、この小説で描かれているのは、明解な事実としての内面ではなく、明らかに客観性を欠いた、ほとんど妄想といっていいもので、なおかつ、連作という形をとることによって、ひとつの作品での主人公の個人的な<思い>は、他の作品によって相対的なものにされてしまうという、巧妙な仕掛けがほどこされている。
それぞれの主人公はいずれも、他には明らかに出来ない秘密を抱えていて、それは不倫であったり、あるいは、ビョー的ともいうべき性癖であったり。例えば、「オリビアと赤い花」の主人公である37歳の人妻(子持ち)は、傍から見ればつつがない、ありふれた日々を過ごす凡庸な女性だが、時に、出会い系サイトで「男を刈り取り」、しかし、指定した時間・場所に現れた男に声をかけず(かけさせず)、ただ観察するだけという邪悪な遊び(!)に耽ったり。目の前の現実に言い知れぬ違和感、喪失感を抱き、生=性の渇きを覚えると、心の中で、「岡さん、岡さん」と、かっての恋人の名を呼ぶのだ。
「運動靴と処女小説」の主人公である、勤めていた会社を早期退職して古本屋を始めた60間近の男は、密かにフィットネスクラブの受付嬢と不倫しているのだが、ある日、彼女に妊娠していることを告げられると、「この世界はもう今まで僕が知っていた場所ではないのだ」と眩暈のように思い、その翌日、「産んでいいよ、僕は妻と別れる。生まれてくる子どもと三人で一緒に暮らそう」と彼女に電話で告げる。しかし。男とは24歳違いの、彼の目下の生き甲斐となっていた彼女の実像は、男が目にし、感じていたものとはまったくかけ離れており。それが、「クラプトンと骨壺」という、彼女を主人公にした作品によって明らかにされる。
彼女には哀しすぎる過去があった。生後一ヶ月で亡くなった子ども(レイラ)がいて、それを遠因に、ほどなく夫も自殺してしまったのだ。その言うなれば心の傷を癒さんがために、彼女は毎夜のようにクラブに出かけ、手ごろな男を漁ってはベッドをともにしている。古本屋のおじさんも漁られた男のひとりに過ぎない。もちろん、知り合ったのはフィットネスとは別のクラブでだが。しかし。そんな男漁りでは癒されようはずもなく、彼女の前に時々、亡くなったはずのレイラが現れ、それが彼女にとっては最後の命綱となっている。が、この小説には最後に更なるひと捻りがあって、それは …?
長くなってしまったので、続きは次回に。