竹内銃一郎のキノG語録

こんな映画が他にあっただろうか?!  久しぶりの「晩春」に驚く。2016.04.13

小津の「晩春」を見る。先週、NHKBSで放映されたデジタルリマスター版だ。毎週、2、3本はTVで録画したものを見ているが、今年見た映画の中では、もっとも刺激を受けた。この映画をもとにして「東京大仏心中」(『月ノ光』所収 三一書房刊)を書いた時に、何度も繰り返して見ているのだが、初めて見るように新鮮!

話の中身はといえば。ふたりで暮らす父と娘が主人公。妻(母)は亡くなっている。父は娘をなんとか嫁に出したいと思っているが、娘の方は、自分がこの家を出たあと、一人暮らしになってしまう父が心配だと言って、結婚を渋っている。さてどうなるかどうするかという、ありていに言って、退屈きわまりないものである。にもかかわらず …。

小津と野田高梧の手になるシナリオは、いわゆる文学とはほど遠いものだ。父親が経済学者であるとか、娘の結婚が遅れてしまったのは病気のためであるとかといった、物語を成立・理解させるための基本情報と、これも基本情報といってよかろう、父と彼の友人、娘と彼女の高校時代の友人との間で交わされる、互いの親しさを物語る、コントのようなやりとりと。台詞の大半はこれら、いわゆる名台詞とは対極にある、無味乾燥な、あるいは冗談めいた、軽妙なやりとりによって占められている。もちろん、真摯な言葉のやりとりがないわけではない。物語の終わり近くに用意された、京都旅行に出かけた父娘が迎える最後の朝のシーンがその最たるものだろう。結婚を間近に控えた娘が、ずっとお父様と(婚約を破棄して)このまま一緒にいたいと、それまで抑えに抑えていた気持ちをここで吐露する。この映画のいわば山場だ。当然のように父は驚くが、しかし、そんな娘の思い違いを収めるべく、静かに語られる父の言葉もまた、見る者の心の奥底に響くような<文学の香り>の欠片もない、まるで大昔の修身の教科書に書かれているような、退屈な人生訓以外のなにものでもないのだ。

言うまでもなく、映画は映像によって観客の視覚を刺激し、かれらの想像力を喚起するものだ。言葉=台詞と、そして流れる音楽等の聴覚的刺激は、あくまで映像の補助的機能に過ぎない。「晩春」に限らず、小津+野田によって書かれたシナリオは、このことに徹底しているかに思える。映画は、言葉しかない文学とは決定的に違うのだ。

これまた言わずもがなだが。観客の視覚を刺激するのは、「スターウォーズ」等に見られるような、豪華絢爛たる映像や、息を飲むようなスペクタクル・シーンのみを指すわけではない。例えば。110分ほどのこの作品の9割以上のシーンが、ふたりの登場人物でまかなわれていることに、わたしは目を奪われた。ドラマは「3」によって成立する。つまり、対立するABがいて、その間に立つCが時に応じて、AについたりBについたりすることで物語を展開させていく。これが常識的なパターンのはずだが、この映画のカット・ショットの大半には、Cにあたる人間がいない。にもかかわらず、もの・ことはまことにつつがなく、そして楽し気に進行していく。こんな映画は多分、他にない。

いったいどうなっているのか。Aだけのワンショット、Bだけのワンョット、ABが揃ったツーショット、ABがともにいない空ショットと、この4つのショットをリズミカルに組み合わせて、普通なら退屈を覚えさせるはずの「Cの不在」が、物語の進行・展開をスピーディにしているのだ。この手法を有効に機能させ、映画をより「運動的」にしているのが、先に記した非文学的な(?)シナリオであることは言うまでもない。

久しぶりに見た「晩春」があまりに面白すぎて、『しかたのない水』はわたしの関心から遠ざかってしまった。浮気性というより、やっぱりわたしは文学は得手ではないのかもしれない。

 

 

 

 

一覧