どこもかしこも恋ばかり …。 「或いは魂の止まり木」ノート①2016.04.14
結構な陽気になってきたが、お目々の痒みが腹立たしい。花粉症だ。鼻水も出る。5、6年前からスギ花粉は敵ではなくなっているのだが、う~む、ヒノキ花粉めッ。落語の「あたま山」は、さくらんぼの種を食べてしまった男の頭のてっぺんから、桜の木が生えてきて …という話だが、花粉が入った目玉から芽が出て、杉や檜が、或いは、魂の止まり木なんてえ木が生えてきたりして …。
てなお粗末な枕をふって、稽古が間近に迫っている「或いは魂の止まり木」について、これからしばらく、あれこれ書いていこう。まず。
三世代七人の家族が暮らしていた家から、祖父母が亡くなり、長男が自殺し、父は蒸発し、次男と長女は都会に出、最後にひとり残っていた母も年下の男と再婚して海外移住し、17年間で誰もいなくなってしまう。お話を簡単に記せば、こういうことになる。設定されている空間は、メインになる「その家」と、自殺の名所になっているらしい断崖の近くにある一軒家。このふたつの家を行ったり来たりしながら、ある年の夏の数日が描かれるのだが、もうひとつ、長女が妄想する「ありえたかもしれない夏」が幾度か挿入される。
「どこもかしこも恋ばかり」とは、チェーホフの「かもめ」の一幕の最後に置かれた、医師・ドールンの台詞だが、この「魂~」にも複数のありうべからざる(?)恋愛模様が描かれていて、わたしの最大の関心はそこにある。
次男は自殺した兄のかっての恋人を恋愛の対象としていて、蒸発した父は若い人妻とワケアリな関係にあり、結婚を決意した母は、子ども達が30半ばであることから推定すると、60に手が届こうかという年齢のはず。いずれも、まっとうに生きている人々から、非難と羨望の眼差しを投げかけられても仕方ないものだ。しかし、さらにありうべからざる、許しがたい、認めがたい恋愛(感情)が提示されている。妹は亡くなった兄に対して、通常の兄妹の関係を超えた感情(=叶わぬ恋心)を抱いているのだ。
先に、ふたつの空間と、現実・妄想のふたつの時間が設定されていると書いたが、正確に記せば、もうひとつの空間と時間が設定されていて、それは、フツーに考えれば幽霊であるはずの兄と妹が、ふたりだけで過ごす空間・時間である。かって吉本隆明が『共同幻想論』で重視した「対幻想」を想起させる設定だ。
前回、「晩春」の大半は、ABふたりだけのショット・カットから成り立っていると書いたが、この戯曲も同様の構造になっている。もちろん、映画と芝居は違う。映画では、たとえその空間にABCがいても、カメラの切り取りによって「Aしかいないこと」に出来るが、芝居の場合はそうはいかない。的確なショット・カットの積み重ねが、映画をより映画的にするのであるならば、<文学>から遠く離れた「芝居以外のなにものでもない」芝居を作り上げるためにはどうしたらいいのか。演出の眼目はそこに絞られるはずだ。