竹内銃一郎のキノG語録

ズレがもたらす運動   「~魂~」ノート②2016.04.17

木曜日。ブログを書き終えて、ニュースでも見ようかとTVをつけたら、「熊本で大地震 震度7」という文字が飛び込んでくる。この世の一寸先は闇であるなあと慨嘆。昨日もグリーンチャンネルで競馬を見ていたら、画面脇に「熊本で地震」の文字が。まだ言うかとイラッとしたが、よく見ると、それは余震の知らせだった。熊本城が震度6の余震で倒壊したという。マジか。それと関係あるのかないのか。昨日今日の競馬で落馬の連続。合わせて10頭くらい落馬した。長いこと競馬をやってるが、こんなことは記憶にない。先々週だったか、その前だったか。NHKスペシャルで、日本列島はくまなく活断層に覆われていることを知らされ、まるで砂上の楼閣じゃん、わしらは袋の鼠じゃんと身震いしたのだったが。恐ろしい。病気で死ぬのは自業自得のようなものだが、地震でペチャンコにされるのは勘弁してほしい。

今回の地震は活断層のズレによるものらしいが、小津映画では視線がズレる。互いに相手の顔を見ながら言葉を交わしあってるはずのふたりの視線は、それぞれのワンショットが重ねられると、交叉することなく、あらぬ方向へと向かっているのだ。前回記したように、「晩春」はありがちな話に終始していて、心に残るような名台詞もない。フツーに考えれば退屈な映画にしかならないはずなのに、常にある種の緊張感に溢れ、きわめて運動的にしている理由のひとつが、他の映画では滅多にお目にかかることのない、この「視線のズレ」である。

この「視線のズレ」がもたらす不安定さ(=運動的)を、小津は俳優を執拗に(?)動かすことによって、さらに強調する。「晩春」に典型例がある。場所は、原節子演じる娘の叔母、つまり、父の妹の家である。部屋の中央に座卓があり、叔母の、「こっちへ」という指示に従って娘は座卓前に、カメラに背を向けて座る。座卓前・上手側に座る叔母は娘に、いい男がいるのだがと縁談を持ちかける。娘にはその気がなく、その意思表示でもあろう、立って、縁側に移動し、そこに置かれている椅子に座る。叔母の話は終わらない。娘は意を決したかのように再び立ち上がり、今度は座卓の向こう側、カメラの正面に座り直して …。おそらく5分もなかろうこの間に、娘は、移動・座る・立つ・移動・座る・立つを繰り返すのである。

何回か前に、「椅子は座るためだけにあるのではなく」というタイトルで、演出ノートを書いたが、その際、わたしの念頭にあったのは、このこと、つまり、そこに椅子があるからといって、座ってしまうと芝居が停滞して、客は退屈しますよ、と。そもそも、複数の人間が腰を据えて、互いの顔・目を見ながら話さなきゃいけないような<重大事>など、現実の生活では滅多にないのだ。もしあるとしたら、それは芝居がかった状態に違いない。小津映画はそんな<事実>も明らかにしてくれる。そして、立つ・移動・座るの反復が、先に記したシーンのように、(多少の対立はあるものの)基本的には退屈な話を活性化させ、真面目な話に対してはノイズとして機能し、言葉・物語、そして、ひとが語り合うということ自体を異化するのだ。

 

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