そのとき椅子は不在の家族となり … 「~魂~」ノート④2016.04.19
真夜中の食卓。使い古された大きなテーブルに数脚の椅子。
「或いは魂~」の冒頭のト書きである。まずそこにテーブルと椅子があるのだ。テーブルの上には数冊のアルバムが積んであり、そのアルバムを媒介にして、いまは散り散りになった家族について、佳織(この家の娘)が追憶と妄想を繰り返す。これがこの戯曲の大きな柱になっている。こう書けば、彼女を妄想へと駆り立てる古いアルバムこそが、この物語における最重要物件であると、誰もがそう思うだろう。おそらく作者も。しかし。それは、戯曲上でのこと、紙の上のことに過ぎない。なぜなら、アルバムに貼られた写真を、観客は見ることが出来ないからだ。むろん、想像は出来ようが、観客が直接目にしえないものを、重要物件と見なすことは出来ない。これが舞台の鉄則だ。ならば、なにを舞台上の重要物件とするのか。冒頭のト書きで示されている、椅子以外にない。
アルバムに収められた最新の写真は、17年前のある日、朝食のテーブルを囲む家族を撮ったものだ。この時、七人の家族は、おそらく全員椅子に座っていて、ということは、それらの椅子は、彼らの体に隠されているということになる。写真の中では、それがそこにあることすら気づかれぬほどに希薄な存在だった椅子が、いまはアルバムを見る佳織が座っているものを除いて、自らの裸形をさらし、主たちの不在を物語っている。
劇の要請に応じて、登場人物たちは登場と退場を繰り返し、時にその場が、倉田家の食堂から断崖の近くにある海辺の一軒家へと変貌することになっても、7脚の椅子は、その場から去りはしない。椅子は常にテーブルとともにそこにいて、家族とそして<一軒家>に立ち現れる人々の、どこか滑稽な苦悩と苦闘の別れの劇のすべてを見続けている。
『小津安二郎の反映画』からの再度の引用。吉田は、「晩春」にも登場する椅子について、次のように記している。
父と花嫁が出かけたあと、人影のない部屋にまばゆいばかりの陽差しが変わることなく降りそそぎ、さきほどまで花嫁姿の娘が腰かけていた椅子が、取り残されたように映し出されるのだが(中略)、椅子は娘の不在、その別離をおのずから示していた。それはまた、ひとり取り残される父の孤独をも告げていた。(中略)明るい陽差しの中にひっそりと浮かぶ椅子は、これまで父と娘とのあいだに読み取られたあのただならぬ愛憎劇や、京都の宿でのおぞましい妄想を夢うつつのものへと変え、すべてが日常的な出来事でしかなかったことを、静かに語りかけている。