竹内銃一郎のキノG語録

<分からない>が悦ばしき<発見>を促す。 「~魂~」ノート⑤2016.04.21

演出に携わるのは、13年4月の「どらいのなつゆめ」(DRY BONES)以来3年ぶりになるが、他のひとの戯曲でとなると、授業の発表会を除けば、08年のドラボのプレ旗揚げ公演「耕地」(作 井上竜由)以来だ。「~なつゆめ」はシェイクスピアの原作を上演用にかなり大胆に書き換えているし、短編集「いちご大福姫」(DRY BONES)なども、作品によってはずいぶんわたしの手が入っている。

今回のように他のひとの作を演出する方が、断然楽しい。他のひとの戯曲は、基本的によく分からないので、稽古を重ねながら、戯曲の核心とわたし自身の関心を擦り合わせていく、その過程が楽しいのだ。そこへいくと自分が書いたものは、当然のことながらすべて<了解済み>で、作家としての了解事項を演出家の視点から相対化し、新たな発見に至るのはとても難しい。もちろん、例外がないではない。書いている時には頭の隅にさえなかった、とんでもない<回答>を繰り出す俳優やスタッフがいると、わたしの脳に火がついて(?)、稽古場全体も活性化し、この上なく楽しい共同作業の現場になるのだ。

JIS企画の最初の公演「月ノ光」がそうだった。ある日の稽古時に、なにがきっかけになったのはもう忘れてしまったが、これは人間の手(=外部化された脳)を主題とした劇なのだと<発見>し、これを起点に物語を解きほぐしていけばいいのだと思いついたら、俳優たちの手自体、動き自体がことさらに面白く、俄然日々の稽古が楽しくなったことを思い出す。前回、「観客が直接目にしえないものを、(舞台上の)重要物件と見なすことは出来ない。」と書いたが、これはその具体例だ。言うまでもなく、出演者たちの手は、観客の誰からも見ることが出来るのだ。彼ら観客が、それを重要物件と見なしたかどうかは、甚だ疑問ではあるのだけれども。

今回の演出のポイントは、前回にも書いたように、7脚の椅子である。劇は、その7脚すべてが裸形にある状態から始まり、途中、ひとが座ったり立ち上がったりするのに従ってその形(=見え方)を変えつつ、最後は再び裸形の7脚を残して幕を降ろすのだが …。始まりと終わりは同じでいいのか、それとも、最後はすべてテーブルの上に乗せた方がいいのか。ひとが座らない状態が長く続く椅子は、舞台隅に移動したら舞台の様相はどう変わるのか。登場人物たちの物語に先んじて、椅子たちの表情を明示する方法は可能か。それぞれの距離は? 向きは? 椅子と座るひとは固定するのかしないのか等々、考え出したらきりがない。ま、稽古の中で試行錯誤を重ねていく中で、答えはおのずと出て来るものなのですが、そのためには、わたしも含めた、この公演に関わる全員の、錯誤を恐れぬ試行(=試みの行為)の持続が必要なわけで …

 

 

 

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