竹内銃一郎のキノG語録

ふれる=ぶれる  「~魂~」ノート⑥2016.04.25

恋愛は、合一化しようと願いながらそのことの実現によって崩れるという、やっかいな代物だ。(中略)二つのもののあいだの隔たりが、ここでは本質である。離れているものがめぐり逢い、たがいに惹かれながら合一化しえない、そういう緊張感のなかにしか恋愛はない。(鷲田清一『皮膚へ 傷つきやすさについて』思潮社 より)

これまでも繰り返し書いたように、「~魂~」には、性愛に関するあからさまな台詞はなく、さらには、一度の例外を除いて、男女が触れ合い・抱き合うことを指示するト書きもない。まるで上記の「たがいに惹かれながら合一化しえない、そういう緊張感のなかにしか恋愛はない」という、鷲田の言葉に従うかのように。しかし。確かに互いの身体による接触はたった一度だけなのだが、それにとって代わる(?)重要物件がある。それは、自殺した長男が残したノートだ。そのノートは、父からある女性へと移り、それから、長男の母へ、怪しげな探偵へ、次男へ、この物語の語り手ともいえる妹へと、あたかも彼らを結ぶように次から次と移動して、最後に妹から長男へと手渡されて、その見えない円環は閉じられる。もちろんその度に、彼らの手と視線によって、ノートは触れられるのだが、この<触れる>について、鷲田は前掲の書で次のような、この劇の演出の方向性を示唆する、興味深いことを書いている。

触れるというのは、振(ぶ)れるということなのである。ほかの多様体(=あなた)との〔偶然的な〕接触のなかで、<わたし>は、飽和や漏出、明滅や変成、移り気や発火、揺らぎや波動のなかに投げ込まれる。存在がぶれるのだ。(中略)家族との関係、友人との関係、恋人との関係においては、双方が揺れている。揺れたまま、まるで並んだブランコのように動きがぶれてしまう。運動がしばしば同期することももちろんある。しばらく手がとどくところでふたりは揺れている。が、だんだん運動はずれだして、いつも傍を行き来しているのに触れられなくなる。もどかしいほどにちぐはぐなブランコ。

長男の残したノートにはなにが書かれていたのか。劇中でのたった一度の<例外的な触れあい>は、いつ・どこで・誰と誰との間でなされるのか。これら気になる事柄については、ここでは明らかにしない。もちろん、実際に劇場に来ていただいて、ご自分の目と耳で確認していただきたいからであります。シミマセン。

 

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