蜷川幸雄氏の訃報を知って2016.05.13
予知能力だの第六感などというものは誰にも備わっている。むろん、それは危険を未然に防ぐためで、わが身を守るための本能でもあろう。多くは無意識のうちにであるが、ひとは常に次に起こるであろうことを、時に希望とともに、時に不安とともに想定している。しかし、大半は外れる。本能が磨滅しているからだ。それだけ世界は安全になっているともいえる。という不必要に長い前置きをして。
昨日、大相撲の結びの一番、鶴竜VS勢を見て、さて出かけようと思ったら、NHKTVは夕方のニュースに切り替わり、アナウンサーの「訃報です」という第一声を聴いた途端に、ニナガワか? と思ったら、やっぱりそうで、ビックリ。
長い間生きていると、感謝しなければならないひとは一杯いる。氏もそのひとりだ。わたしの最初の劇団である「斜光社」の主要メンバー、木場、嬢は、ともに蜷川氏の「桜社」の舞台に出演しており、和田は氏の演出助手を何度かつとめていた。その関係で、斜光社の3回目の公演「黄昏遠近法 夜空の口紅」を見に来てくれ、彼らに「面白かった」と言ってくれたのだ。当然のことながら、彼らもそしてわたしも、その言葉にどれだけ勇気づけられたことか。
氏の初演出作品「真情あふるる軽薄さ」を見ている。多分、清水邦夫さんが書かれた戯曲の上演だったからだろう。清水さんは、当時わたしが通っていた「シナリオ研究所」の講師のひとりだったのだ。これは<伝説的舞台>と呼んでいいだろう。上演劇場の「新宿アートシアター」は映画館で、通常の映画上映が終わったあと、舞台を仕込んで上演。開演時間は10時を過ぎていたはず。そういう異例の公演であったことが話題にもなって、開演前には、劇場を観客が何重にも取り巻いていた。入場すると、さっきまでの私たちを模写したかのように、舞台幕前に長いひとの列が出来ていて、幕が上がるとさらに長い列が、という度肝を抜くような演出。しかし、わたしにはそれがあざとく思われた。ラストシーンは、その長い列をなしていた善良な市民たちに、主人公の<怒れる若者>が、列を乱したという理由から集団暴行を受け、幕。おそらく、戯曲はそこで終わっているはずだが、蜷川演出は、下りた幕前に、今度は観客を威圧するように、ジュラルミンの盾を持った機動隊員達をズラッと整列させたのだ。これは、学生たちのデモ隊と機動隊が、毎日のように衝突を繰り返していた当時の<社会世相>を反映させたものだが、この<挑発>に乗った若い観客たちが、その偽物の機動隊に体当たりしていくという、今では信じられない付録もあって。時代だなあ。もしかしたら、サクラがいたのかもしれないが、純情な彼らと違って非情なわたしは、その茶番とも思える見えすいた演出に、「なめんなよ」と思ったものだ。
氏の作品では、同じ清水さんの初期戯曲を演出した「明日そこに花を挿そうよ」がいちばん好きだ。渋谷の小さな稽古場での無料公演。貧乏だったから無料に惹かれたこともあろうが、なにより、この公演を紹介した新聞記事の熱気に煽られたのだ。書いたのは、当時の朝日新聞の気鋭の演劇記者・扇田昭彦。話は逸れるが、この国のいまの演劇状況でなにが一番欠けているかと言えば、氏のように演劇について語る、ジャーナリスト・批評家だろう。ま、彼らに言わせれば、熱っぽく語れる芝居がどこにあるんだ、ということになろうが。どちらも40数年前の話で、この頃、自分が後に演劇に関わることなど、夢にも思っていなかった。ましてや、こんな歳まで続けているとは!
蜷川氏と直接会って、言葉を交わしたのは何度あったか。はっきり覚えているのは、氏が主宰していた「ニナガワ・スタジオ」で、その一部ではあったが、わたしの「あの大鴉、さえも」が上演されたことがあり、それを見に行った際に、感想を求められて二言三言。それから、さいたま芸術劇場の、氏は大稽古場、わたしは小稽古場で同時期に稽古をしていたことがあり、廊下で会って、やあやあと声をかけて頂いて …。
ウィキで氏の演出作品一覧を見る。その膨大さに改めて驚かされたが、率直な感想を記せば、それらの三分の二は、やる必要のないものではなかったか、と。氏に直接こんな感想をぶつけたら、多分「きみ、そんなことは分かってるよ」と苦笑するだろう。誰にも他人には言えない、よんどころのない事情があるのだ。合掌。