蟹悪さしたように生き2016.08.02
暑い。なにもする気になれない。芝居が終わって、ある種の虚脱感も手伝っているのか。
「或いは魂の止まり木」の観劇感想のツイートを読む。ずいぶんの数。好意的なものが多いのも嬉しかったが、ずいぶん熱心に見て頂いたことが分かり、それが望外の喜び。
本を読もうと思っても、10分ほどで眠くなってしまう。熱帯夜のため熟睡が阻まれているからだ。昨日の夜、眠れないままに、高校の卒業者名簿を手にする。懐かしい名前が並ぶ中に、モリタの名がない。下の名を忘れてしまったが、そもそも同級生男子でモリタ姓がふたりしかいない。どちらもあいつの名前ではなく。確かに卒業したはずなのに。なぜだろう? どこでどうしているのやら …。弟の名が物故者の中にあった。もちろん亡くなっているからだが、改めて哀しみが押し寄せる。もうじきお盆だ。
今朝、録画しておいた「寅さん、何考えていたの? 渥美清・心の旅路」を見る。渥美清が作った200余りの俳句の中から、倍賞千恵子等、彼のかっての仕事仲間たちが、これはと思う句を選び、彼の思い出を語るという趣向の番組。どの句も深い淋しさと孤独がユーモア(=非情)を交えて語られている。5・7・5の定型を無視した破調の句が多い。それは自由というより、いわゆる市民生活に収まり切れない業を感じさせ、それがまた切ない。今回のタイトルは、風天という俳号をもった彼の秀句。
数日前に見た、「なまいきシャルロット」のシャルロット・ゲインズブール、「死への逃避行」のイザベル・アジャーニにも同様の「業」を感じた。暗闇の中にさえ溶け込めない、彼女たちが抱える暗さ。演技の上手い下手ではない。やっぱり表現(者)は生き方が問われるのだ。
後者は、鷹の目という異名をもつ中年の探偵が狂言回しとなっている。ひょんなことからアジャーニを知り、彼女の魅力にとりつかれ、ストーカーのように彼女を追いかけ、結果的に、次々と男を殺す彼女を幇助することになるのだが、なぜか警察の網にひっかからない。彼はまるでこの世に存在していないかのよう。こんな、幽霊みたいな男を主人公にした芝居は出来ないか、とふと思う。
両作の監督、クロード・ミレーユは2、3年前に亡くなっていることをウィキで知る。ショック。享年70。20年前に亡くなった渥美清は享年68。ひとの亡くなった歳が気になる。
ユーチューブで松田定次にインタヴューしたものを発見。聞き手の沢島忠の進行が拙く、少々イライラさせられたが。松田がこんなことを言っていた。曰く、映画監督には体力と自惚れが必要。自惚れとは、自分はもっと出来ると思うこと。体力と自惚れがあれば、30歳の時よりも50歳の時の方が、50歳の時よりも100歳に撮った作品の方が優れたものになるはずだ、と。よしよし。