竹内銃一郎のキノG語録

アナログとデジタル  安倍さんと「進撃の巨人」(アニメ版)②2016.09.23

まるで「巨人の進撃」を思わせる台風の襲来。あちこちでの地震連発といい、なにやら胸騒ぎがする今日この頃。

WOWOWで「進撃の巨人」の実写版を見る。といっても、例の如く、最初の数分を見て、これはいけませんと判断し、それからは早送りでザザッと見ただけだが。気になる点をあげつらえばキリがない。なにより耐え難かったのは、アニメではさほどでもなかった巨人が人間を食うシーンが、もう気持ち悪くて怖いのなんの。怖いのはスカンのだ。

安倍さんは、演劇に惹かれたのはアナログだからと語っている。にもかかわらず、演劇の軸となるべき俳優が、言葉や感情の動きを分かりやすく説明することに、即ち、デジタル的演技に終始していることに不満・違和感を感じ、それが安倍スタジオの設立につながったのだ、と。アナログ的とは、曖昧・不定形なもので、デジタル的とはその逆のものを指す。日常生活における人間の表情は、曖昧なものである。当人は笑っているつもりでも、見るひとによっては、「哀しそう」「本当は怒ってる」と受け取るかもしれない。しかし、数字の「1」は、誰にとっても「1」以外ではない。デジタル的なるものとは、そういうものだ。アニメの登場人物の表情は、きわめてデジタル的だ。哀しい時には哀しい顔を、怒っている時には怒った顔を示し、さらに、声優たちはその表情を確固たるものにするために、視聴者を「たったひとつの正解」へと導くために、哀しそうな声、怒声で分かりやすく<説明>をする。

話し言葉は、話すひとの歴史性を帯びていて、なおかつ、話している状況=風景が関与するから、「あなたが好きです」という言葉(の意味)は一律・不変ではありえない。という意味でアナログ的である。書かれた言葉も、置かれた文脈によって意味が変わる。しかし、アニメで語られる台詞は、きわめてデジタル的である。表現を変えれば、それらは身体(性)を失った言葉だ。むろん、アニメの登場人物にはそもそも身体(性)などないのだから、それを注文する方が野暮というもので、だからこそ、わたしのようにアニメなど見ないものには奇異なものに聞こえても、フツーのアニメファンはなんの苦もなく受け入れられるのだ。アニメの、「1」は「1」以外ではないという提示のされ方が、おそらく、ファンにとっては易しく、それがゆえに、優しく思えるのだ。

いまや、「分かり易い」ということが、<表現>にとって欠くべからざるものであることになっている。それはいったいいつの頃からか。なんの検証もないままザックリと書いてしまうが、それは、王や資本家等の権力者vs市民・労働者、資本主義社会vs社会・共産主義社会、等々の「分かりやすい対立=大きな物語」が消失して以降だろう。ベルリンの壁の崩壊を皮切りに世界は細分化され、それにともなってわたし達も、誰が敵で誰が味方か分からない状況下に置かれている。多くの人々が分かりやすさを求めるのは、それが故だ。そして、「進撃の巨人」が多くの読者を獲得したのも、巨人vs人間という、誰にとっても了解可能な「二項対立=大きな物語」を提示したからだ。しかし。

世界・社会がアナログ化の度を増したからといって、デジタル化へと傾くというのは、いくらなんでも安易に過ぎるのではないか。アナログな社会はアナログ的方法でしか描けないのではないか。(以下続く)

 

 

 

 

一覧