竹内銃一郎のキノG語録

土橋くんの新作2014.06.04

先週の金曜は、浦和のハローワークに行って失業保険の手続きをし、日曜はダービーデーでPOGの岩本メンバー宅でTV観戦の後、今年のドラフト会議、月曜は横浜で松本くん演出の「ニッポニアニッポン」を観劇し、今日は大阪のウイングフィールドで、A級Mの「あの町から遠く離れて」を観劇。東奔西走の一週間でありました。
ダービーは負けても3着は外さないと思われたTワールドがよもやの5着で馬券外れ。
昔から、馬七人三と言われていて、これは、勝敗の結果の3割くらいは騎手の責任、という意味。
Tワールドと勝ち馬の差はほんのわずかで、騎手のレース中の位置取りやいつどこでスパートをかけるのか、その判断次第で、結果はひっくり返っていたはずだ。
一瞬の判断の間違い・遅れが致命傷につながるのは他のスポーツも同じで、実に恐ろしくも厳しい世界である。
ひるがえって、芝居の世界はどうかというと …
多分、本当はスポーツとさほど変わらない厳しさが要求されているはずだが、残念ながらそのように感じさせる舞台が稀有である、というのがこの国の演劇の実情であろう。
これまでも何度か書いてきたが、今日見たA級Mの演出家である土橋くんの舞台は、その稀有なもののひとつだ。
10日ほど前、10月に上演してもらう戯曲の参考にと、今日見た芝居の稽古を見せてもらった際、幾つか気になる箇所があり、あそこはああすればいいのにと思ったが、話す時間もなく、なにも言わずにその日は帰ったのだが、そのわたしが感じた疑問点のほとんどが見事にクリアされていて、とても感心してしまった。
俳優にアマ・プロの差はなく、上手い・下手の2種類しかいない。松本演出の芝居を見て改めてそのことを思った。
何十年というキャリアを誇り、おそらく当人はプロであると思っているはずの俳優諸兄の、あまりの下手さに驚いた。満足に立ってもいられないし、もちろん、歩けもしない彼等。
演技を構造的に考える、などということを考えたこともないし、教育を受けたこともないし、教育・指導を受けてもピンとこないのだろう。だから、やってることは素人の高校生と基本的にはなにも変わらないのだ。ただただ一生懸命、力任せにやっているだけで、そう、一生懸命やれば客に伝わるはずだと思っているのだろう。
台詞をからだで割る、からだを台詞で割る。どこでどう割ったらいいのか。自らの演技を構造的に考えるとは、簡単に言えばそういうことだ。
土橋くんの演出は、多分そのように緻密に考えられていて、俳優諸兄もそういう指示によく応えている、そんな当たり前のことが当たり前になされている、そのことに感心したのだった。
もちろん、不満がないわけではない。テキストの面でも演出の面でも、明快な論理や正確さを裏切るようななにか、それは 蓮実重彦風に言うならば野蛮さというようなものかもしれない、そういう<突き抜けたもの>が欠けているように思われた。

これまたここでも繰り返し書いているように、ひとは<分からないもの><得体の知れないもの><危ないもの>に魅かれるはずだが、そういうものが足りない、色気と呼んでいいのかもしれないナニカが。
とはいえ。論理性などハナから無視しているような舞台が氾濫している現状を鑑みれば、上等な芝居というほかないのは言わずもがなで。
劇は、認知症かと思われる老人が鳩にエサをやっているところから始まるのだが、その鳩を臆面もなく俳優が演じるという奇手を使い、しかし、それを単なる客受けを狙った奇手に終わらせず、その後の物語のフィクションの強度を保証している。即ち、浦島太郎(らしき者)のゴジラ(らしきもの)への変身等、荒唐無稽な設定を無理なくわれわれに了承させるのだ。論理的な作りとはこういうところを指している。
お客も入っていた。わがことのように嬉しい。やっぱり客の入らない芝居はダメだ。
10月の公演。老骨を鞭打ち、なんとか少しでもA級Mの力になりたい。今日の芝居を見て、改めて強くそう思った次第です。

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