竹内銃一郎のキノG語録

四苦八苦する。 「かごの鳥」を書きながら①2016.11.23

「かごの鳥」のデータ化が思いのほか難航している。ま、「あたま山心中」の時もそうだったので想定内なのだが。機械的にただ写し取るという<単純作業>ならばことは簡単だが、そうはいかない。手間がかかるのは、ひとつひとつの台詞やト書きを、これでいいのかと吟味しつつやっているからだ。その大半は、語尾を取るとか句読点の位置を変えるとか台詞を倒置する、といったような、顕微鏡を覗いて重箱の隅を楊枝でほじくるような、おそらく、ほとんどのひとは前のものと書き換えたものを読み比べても、どこがどう変わったのか気がつかないような、神経を使うわりには見返りの少ない作業で、だからひどく疲れもするのだが、しかし、理由はそれだけではない。

書くことに限らず、絵画や彫刻、工芸品、音楽、あるいは、農業や林業等々も含め、ものを作る喜びは、それまで存在してしていなかったものが、新たに誕生する、その瞬間に立ち会う喜びであるはずだ。むろん、作り手の大半は、あらかじめ、こうすればこうなるだろうという想定のもとに創作にとりかかるはずだが、しかし、時として、いや、往々にして、想定外のものが生まれたり、自分でもなぜこんなところにと、理解不能な地点に至ることがある。「新たな誕生」とはこのことを指すのだが、いまやっている旧作の書き直しにはその種の喜びが、つまり、新作を書いている時にはある、<言葉が言葉を生み出す快感>が希薄なのだ。すでにある原本(?)が、勢いにまかせた若気の至り的な乱暴・粗雑なものなら、まったく新たに書き直すことになって、あるいはそんな快感を味わえるのかもしれないのだが、それなりの完成度を持ってしまっているから、逆に手間がかかってしまうのだ。

保坂和志は『試行錯誤に漂う』(みすず書房)の中で、前述した<言葉が言葉を生み出す快感>と(多分)同じ意味のことを、読み手の立場から「持ってかれる」という言葉を使って書いていて、いまそれを引用しようと思ったのだが、その部分だけ抜き書きしても、なんのことやら? になりそうなのでやめて。せっかくだから(?)代わりに、それが書かれている5章ではなく、2章の「方向がない状態」の一部を以下に。

誤読されるものは誤読される。意味じゃないところで激しい共振を起こさなければ文章なんて伝わらない。それを受け止める読者は少数だ。正しく書かれた文章はクリアで意味が間違われずに誰にでも伝わるというのは、社会の側が作り出した思い込みであり、誰にでも伝わる文章は誰の心も揺り動かさない。

 

 

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