竹内銃一郎のキノG語録

競馬はときどき難しいけど …by C・ルメール2016.12.27

今年もあと5日。改めて時の流れの早さに驚き戸惑う。つい2日前に終わった有馬記念でさえ、なんだか遠い出来事のような気がする(珍しく、馬券はばっちり3連単を当てたのに)。

時の流れを早いと感じるのは、身の回りに起きている事柄をドンドン忘れ去っているということだ。しかし、これはわたしのように、年齢を重ねた(重ねすぎた?)者だけの感慨ではないはずだ。例えば、今年一年を回顧するTV番組などで、オリンピックでメダルを取った選手へのインタヴューなど見ると、おそらく誰もが、まだ半年も経っていないにもかかわらず、それを遠い出来事のように思うはずだ。

どんどん忘れるということは、記憶がどんどん遠くなるからだ。記憶がどんどん遠くなるのは、記憶の多くを止めおくことが出来ないからだ。なぜそうなるのか。毎日が忙しいからか。毎日忙しすぎて、過ぎ去ったことになんかいつまでもかかずらわっていることが出来ないからか。みんなそんなに忙しいのか。だから忘れるのか。ホントに? だとしたら、誰もがみな年齢に関係なく、認知症予備軍に所属しているということにならないか。

世の中で流通している言葉のおそらく9割以上は、忘れてしまって構わないものだ。むろんそれは、いまに始まったことではない。忘れてしまって構わないということは、わざわざ口にするまでもないということで、その分かり易い例が、「おはよう」「さようなら」と言った挨拶の言葉や種々の噂話などだが、それらは、多くの人にとっては人間関係を円滑にするための潤滑油として、簡単に手離すことの出来ないものとしてあるはずだ。因みに、小津安二郎の「お早よう」は、そんな人間の愚かしさ(おおらかさ?)を笑いの対象としている、非情(=知的)かつ、<のんきな時代>に作られたという意味で、幸福な映画だ。

言うまでもなく、忘れてはいけない出来事は多々あり、それを他にあるいは自分自身に伝えるためには、<言葉>として記憶しておく必要がある。映像化という方法が、と考えるひともあろうが、映像も結局のところ言語に転換して記憶されるのではないのだろうか。よく分かりませんが。

忘れがたい言葉がある。それは、これまでも執拗に繰り返し書いてきたことだが、立て板に水のように書かれ語られた言葉とは対極にあるもので、タイトルに掲げた、騎手・ルメールが今年の有馬記念勝利ジョッキーインタヴューに応えた言葉は、その直近の好例だ。ルメールは、去年からJRAに所属するフランス人ジョッキーで、当然のことながら、まだ流暢に日本語を話すことは出来ない。一昨日のインタヴューは、有馬記念というビッグレースに勝利したということで感激・興奮の真っ只中の<通常ならざる状態>にあり(涙を浮かべていた)、だから、いつも以上に日本語がうまく喋られず、「有馬記念勝ちました」「うれしいです」「素晴らしいです」等々といった、まるで小学生が書いた下手な作文みたいなものになったのだが、だからこそ、彼の心境が実にリアルにこちらに伝わってきて、わたしも感激したのだった。

表現は、忘れがたいものでありたい。表現とは、文学や映画・演劇・批評だけでなく、TVの種々の番組や新聞・雑誌の記事だって含まれる。それらにたずさわっているひとは、おそらく誰もがそう思っているはずだ。いや、スポーツ選手だってよく、みんなの記憶に残るようなプレーを、と言うのだから、少なからず、というより、世の大半のひとは、そう思っているのだろう。そうか。世の多くのひとは、自分の中になにごとかを記憶として止め置きたいと思うより、他人の中に自分に関する記憶(=存在の爪痕?)を残したいという希望・願望を優先しているのかもしれない。そうか。だからみんなせっせとツイッターなんかやっているのだ。(以下、次回に続く)

 

 

 

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