竹内銃一郎のキノG語録

祈り 「サウルの息子」と「ヴィクター・フランケンシュタイン」を見る②2017.02.09

「ヴィクター ~」のシナリオが上級だと書いたが、それは、監督以下のスタッフワーク、出演者たちの演技力がともに上級だからこそであることは言うまでもない。フランケンとイゴールの、人造人間作りを続けるか否かをめぐる激しい議論や、刑事がフランケンの企みを暴かんとするふたりの攻防など、見ごたえ充分。残念ながら、近年の日本映画やTVで、こんなハイレベルな芝居に接した記憶がない。一時期流行った言い回しを借りて言えば、日本の映画や演劇は、文学同様、やはり日本語に守られているのだ。日本語で芝居が出来る外国人俳優はきわめて限られているし、中国や韓国の俳優がたとえ日本語を流暢に話すことが出来ても、日本人役を与えられることはまず考えられないから、日本の俳優の競争相手は日本の俳優しかおらず、従って、国境を超えて各国の俳優が入り乱れ競い合う欧米などに比べ、とても恵まれていて、だから演技のグレードが上がらない、と言うことだ。いや、単に俳優の技量云々というより、それを許す環境の方にこそ問題はあるのだが、これについて書き出すと長くなるので、この話はいずれまた、ということにして。

とてもうまく書かれたこの映画のシナリオ、終盤になるとそれまで力強く物語を運んでいた足取りが、なぜか覚束ないものになっていく。人造人間作りの協力を拒み、一度はフランケンと手を切ったイゴールは、しかし、神を冒涜するようなその所業は絶対に阻止せねばと考え、フランケンが研究・制作をしている断崖に立つお城へ、ブランコ乗りの美少女(ローレライ)を伴って向かう、となれば。オーソドックスなドラマトゥルギーに従えば、当然、以後の終末に向かう物語の展開に、彼女が大きな役割を果たすはずだが、それがない。出来上がった人造人間とフランケン+イゴールの戦いに、なんの関与もしないのだ。まさか、ドラマ作りの教則本をかなぐり捨てたわけではあるまい。とってつけたようなラストシーンも含め、尻切れトンボの感なきにしもあらずだが、それを差し引いても、娯楽作品としてこれは上々の映画だと思う。

先に、「ドラマ作りの教則本をかなぐり捨てたわけではあるまい。」と書いたが、まさに、従来の<よく出来た>映画の王道をいったのが「ヴィクター ~」だとすれば、それとは対極の道を選び、と言うより、ありうべき「映画」の一線を超えてしまったのではないかと眩暈さえ覚えたのが、「サウルの息子」である。前回、舞台はアウシュビッツの収容所に見えてそうでないのかも知れない、それはそれを明示する台詞も描写もないからだと書いたが、この映画には、そもそも台詞というものがほとんどないのだ。それは主役の男がほとんど喋らず、そして、画面はそんな無口な男のクローズアップで独占されていて、だから、彼(ら)のいる場所が本当はどこなのかが分からないのだ。以前に、「初恋の来た道」(監督チャン・イーモウ)が、その7割ほどを主役のチャン・ツィイーの顔のクローズアップで占められていることに驚いたことがあるが、こっちは9割が主役の男のクローズアップだから、この事実だけでも、これが尋常な映画ではないことはご理解いただけよう。(この稿、続く)

 

 

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