祈り 「サウルの息子」と「ヴィクター・フランケンシュタイン」を見る。2017.02.07
日曜日。wowowで「ヴィクター・フランケンシュタイン」を見る。見る気もなかったのに見てしまったのは、この映画の前に放映された「サウルの息子」の衝撃が大きすぎて、TVを消すのを忘れてしまうほど呆然としてしまったからだった。
「ヴィクター ~」は、タイトルからも明らかなように、あの怪物=人造人間を作ったマッドサイエンティストのお話で、「サウル~」は、アウシュビッツ強制収容所(推定)を舞台にした、いわゆる反戦映画のカテゴリーに入る映画だ。しかし、反戦・平和を声高に語る多くの反戦映画とは、明らかに一線を画す、というより、従来の反戦映画を支持してきた善意の人々は、おそらく、ある種の戸惑いや躊躇いを感じさせるような、もっと言えば、この映画の支持不支持を問えば、首を傾げつつ支持の札を挙げさせるような、きわめて<異質な>手ごわい反戦映画なのだ。先に、「アウシュビッツ強制収容所(推定)」と書いたのは、ドイツ軍が登場し、全裸で横たわった男女が画面に溢れているのを見れば、ある年齢に達したフツーのひとなら誰でも、「そこはアウシュビッツ」と思うはずだが、しかし、そのことを明らかにする台詞は一度も語られず、ドイツ軍の兵士たちがナチであることを明らかにするような、例の敬礼のポーズなど一度もなされない。だから虚心に見れば、舞台は、アウシュビッツに似ているけれど、そうではないかも知れないのだ。この一点から言っても、この映画の異質性とそして手ごわさはご理解いただけようが、しかし、この映画の感想はとりあえずここで止めて、今日は、もう一本の「ヴィクター ~」について書こう。
この映画は、怖がりなわたしがもっとも敬遠したい<オゾマシ系>に入る映画だが、にもかかわらず最後まで見てしまったのは、よく出来たシナリオに引っ張られたためだ。登場人物の配置・設定が見事だ。物語は、フランケンシュタインの助手になる、元サーカス芸人のイゴールの回想という形で語られるのだが、このイゴール、<せむし男>として生まれ、サーカスではピエロを演じているのだが、人間として扱われることはなく、理不尽な虐待につぐ虐待の日々。そういうからだに生まれついた故だろう、人体に過剰な興味を抱き、独学で勉強。ある日、ひそかに恋していたブランコ乗りの少女がブランコから落下、折れた骨が内臓に突き刺さって、みたいなことになったのだが、ちょうどいあわせたフランケンシュタインとイゴールが応急処置をして、彼女は一命をとりとめ、それを機に、フランケンシュタインはイゴールをサーカスから連れ出し、自分の助手にする。そして、ふたりで人造人間を …という具合に話は進んで行くのだが。
ふたりの出会いの設定が絶妙だ。そして、ブランコ乗りの美少女に異形の若者が恋をし、なおかつ、博士の手で背中のコブを失くしたイゴールは美青年となって彼女と再会し、挙句、ふたりの恋が始まる、という心洗われる流れと、おぞましい人造人間作りとが、つまり、対極にあるふたつが並行して語られるのが、なんともよろしい。また、フランケンの大学の同級生で大金持ちの息子が、人造人間作りのスポンサーになるのだが、このフランケンの上を行く悪魔のような男や、相次ぐ動物の変死事件から、フランケンが危険な企てを目論んでいるのではと、彼を追い回す真面目で粘着質の刑事等の脇役陣の設定も上々。あれやこれやが複雑に絡み合って、いったい最後はどうなるかと、終始ワクワクハラハラさせられる。劇作家・シナリオ作家を志望する若い人は、こういう映画を手本にしたらいいのだ。更には。種々の動物の体の一部をつぎはぎして出来上がる人造猿がとてもグロテスクで、そこは思わず目をそむけてしまったが、そのくだりを除けばそんなにおぞましいシーンもなく、フランケンが人造人間作りに傾斜していったそもそもの理由・きっかけが、拍子抜けするほどヒューマニティ溢れるもので、だからこれは子どもが見るにはとても格好な映画だとも思った。しかし。この映画、日本では劇場未公開らしい。あのハリーポッターがイゴール役を演じているというのに。なぜだ? (この稿、続く)