竹内銃一郎のキノG語録

枝雀さんのこと2010.08.03

ドラボ・メンバーの丑田がブログで愚かしくかつ迷惑な間違いを書いている。
ご存知の方はご存知のように、笑いは「緊張の緩和」から生まれると考えたのは、米朝ではなく彼の弟子の枝雀さんである。
枝雀さんと「さん付け」で記すのは、別に知り合いだからというわけではなく、そう呼ばないと失礼にあたるような気がするからだが、もうひとつ、もうずいぶん会ってないが、わたしの知人に枝雀さんと懇意にしていたひとがいて、彼がいつも「枝雀さん、枝雀さん」と呼んでいたからでもある。
枝雀さんとは一度だけお目にかかったことがある。といっても、エレベーターの中だけれど。前述の知人に誘われて、上野鈴本でひらかれた枝雀さんの独演会に行ったとき、鈴本のエレベーターで一緒になったのだ。
あとで、その知人曰く「枝雀さん、竹内さんのことは知らないはずなのに、あのひとは物書きで、面白いものを書かはるひとでしょ。と言ってました」と。もう30年以上も前の、ちょっとした自慢である。
枝雀さんを初めてテレビで見たのは、それよりずっと前で、まだ前名の小米を名乗っていたころ。多分、東京の落語家に混じって大切りをやっていたのではなかったか。芸人らしくない屈折した風貌と声を張らずに少しひねった回答をする見知らぬ落語家に、わたしはかなり興味をひかれたが、それからしばらくテレビで見ることはなく、何年か経って、いわゆる「枝雀落語」を見て、その変貌振りに驚いた。が、その一方で、そこには明らかに無理が感じられ、わたしは素直に笑えなかった。彼はずっとうつ病と闘っていて、そのことを思うとなんとも切なくて。
でも、ひととはしては立派なひとというほかなく、だからこそ「枝雀さん」と呼ばずにいられないのだ。

一覧